『都市』第51号・2016年6月
マスクしてなほ美しく魅入るなり
山葵田の風に吹かれてガムを噛む
春浅し帽子いくらか深く下げ
薄氷を踏んで確定申告へ
見上げたる額に椿落ちきたる
マスクしてなほ美しく魅入るなり
山葵田の風に吹かれてガムを噛む
春浅し帽子いくらか深く下げ
薄氷を踏んで確定申告へ
見上げたる額に椿落ちきたる
寒星やメニューに見入る老夫婦
戦絶えざるどこまでも歩く熊
哲学するやうにカツ食ふ師走
人参と長さ同じや妻の足
成人の日や和服着てバスに乗る
トーストにバター多目に秋の朝
足袋だけは自分で洗ふ里祭
亡き父を傘に入れ行く野路の秋
新米をまづ愛でたのち箸運び
彼方なる軍艦認む北時雨
五十路迎へ親の小言や冷奴
盆踊り近づくこともなく踊る
必ず手を上げをる妻の昼寝かな
眞夏なりネクタイ締めて教会へ
トイレの戸開ける子のゐる夏休み
蚊帳出づる地獄の顔に秋の風
上記の句は加藤楸邨昭和十四年の作、『颱風眼』所収。
この句を山本健吉は『現代俳句』にて、「房事の後の、何ともいえない虚脱したような自己嫌悪の気持ちを言い取ったのだ」と記している。つづけて健吉は、「「地獄の顔」とはもちろん自分の顔を客体としてとらえたのであって、女の顔ではない。「自分の中にひそんでいるみにくい獣」をその時の顔に感じ取った」と記す。
それをとらえて岸本尚毅は、「「地獄の顔」にかんするかぎり、それが「房事の後」でなければならない必然性があるかどうか、私には依然わからない」(『本の旅人』平成十二年三月号)と指摘している。
なるほど、その後段で、岸本は「「房事」を連想させるのは「蚊帳」であろう」と記しているものの、「「房事の後」でなくても、種々の苦悩や鬱屈によって人が「地獄の顔」になることはあり得ると思う」と、ありきたりな解釈に片寄せてしまう。
ここはやはり、健吉がいうように、「房事の後」ととらえるのが自然と思われる。いずれにしろ、健吉がいうように「俳句でなければとらえられない情景」を詠んだものであり、心に残る一句である。
自らの美しさに耐へ梅雨に入る
打水をかはして歩く猫二匹
暁に幾度も起き梅雨の入
さくらんぼ吐き出す種も美しく
シャツのボタンあまなく外し夏逝かす
真情を打ち明けたくて黄水仙
霾(ばい)の中自転車をこぐ墓参かな
卒業式ついつい浅く腰をかけ
鳥帰るひとに云へないことが増え
一切れの羊羹の味麦の秋
親の悪い癖ばかり似て年男
同窓会マスク外さず受付す
ふと足の爪剪り初(そ)むる木の芽かな
日本人小粒となりぬ春寒し
洗濯もの干しゐて薔薇の芽に見入る
弓を持ちバス待つをんな小正月
口あけて見てゐる人や富士初日
大元旦川沿ひの道早歩き
年男悪い癖ほど親に似て
吾を師匠と呼ぶ教授なり大試験
長き夜やピーナッツ袋空にして
唐辛子ついかけ過ぎる宿酔
長き夜や乳母車押す母がゐて
近眼の雁ただ後について飛ぶ
霧の中ぬつと現る人がゐて
町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打


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