町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

慶應義塾大学 文学部専門教育科目「社会学史Ⅰ」大学での活動

2019.03.04(月)

【箇所】慶應義塾大学 文学部専門教育科目≪通信授業≫
【科目】社会学史Ⅰ[市販書採用科目][ 2単位]
【問題】➀テキスト(那須壽 編『クロニクル社会学』有斐閣)を通読し、②第1章から第17章までのうちであなたが関心をもった章をひとつ選び(序章をのぞく)、③その章の最後にある「読書案内」で挙げられている文献(以下、略)。
【分量】4,000字以内
【添削教員】浜 日出夫〈慶應義塾大学 文学部〉教授

「社会学史Ⅰ」

➀ 那須 壽編『クロニクル社会学』人と理論の魅力を語る(有斐閣)

② 第6章 ウェーバーと理解社会学

③『職業としての学問』尾高 邦雄 訳(岩波文庫

1、『職業としての学問』における学問とは何か

 本書における学問とは、「生計の資を得る道としての学問」[1]であり、それが当時いかなる状態にあったのか、という問いから本書は出発する。それは実際問題として、「大学の卒業生が卒業後大学に残って職業的に学問に専心しようと志すばあい、かれは現在いかなる事情のもとにおかれているか、ということである」[2]。ここで、「かれ」とのみ言及し、「かのじょ」を省いたところに、時代性を感じる。

2、職業としての学問を外国の事情と比較

 ドイツでは職業として学問に専心する経歴は、「私講師」[3]からはじまるのに比して、米国においては、「助手」に任命されることからはじまる。これは、米国の場合、最初から有給にて学問研究がはじまることを意味する。

 他日、ドイツの私講師や研究所助手が正教授となるには、僥倖を待つほかはないということである[4]が、それにも拘わらず、「適任者が任命されることのほうが多いということでなければならない」[5]とウェーバーは、指摘している。

3、学者の就職問題

 有能の評判がある学者をすべて就職させるべきか、それとも「需要」の程度を考慮して、現存の講師たちに独占権を与えるべきかということは、むずかしい問題であるが、たいていの場合には、後者のやり方がとられる[6]

 大学教師の任用を決める際に、もう一つ、考慮されなければならないのは、その「使命が一種の二重性をもつこと」[7]である。問われるのは、「学者としての資格ばかりでなく、教師としての資格も」必要である、ということである。

4、教師の評価

 教師にとって、「聴講者の数はなんといっても数字的にはっきりした目安となるのに反し、学者としての性質は測りえないものである」[8]が、講義という学問の「解説の技術は結局個人的な天賦であって、これはなんら学者としての資質と一致するものではないのである」[9]。そして、これらふたつの才能を兼ね備えた学者の出現は「偶然に待つほかはないのである」[10]とウェーバーは指摘する。

5、学問の専門性

 学問ではかつてないほど専門化の過程が進んでおり、その結果、「学問上の仕事を完成したいという誇りは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ得られる」[11]状況にある。

 その際、学問に向ける「情熱はいわゆる霊感を生みだす地盤であり、そして「霊感」は学者にとって決定的なものである」[12]。この「霊感」とは、研究における思いつきに相当するが、それは、「人が精出して仕事をしているときにかぎってあらわれる」[13]ということである。それでは、その「学問上の霊感はだれにでも与えられるかというと、そうではない」[14]と指摘する。

6、学問の領域における「個性」

 「学問の領域で「個性」をもつのは、その(人の)個性ではなくて、その仕事に仕える人のみである」[15]。それは、「自己を滅しておのれの課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値の増大とともにその名を高める結果となる」[16]ともいえる。

 このことは、芸術家の場合も同様であるが、他方、「学者の仕事は芸術家のそれとはまったく違った運命のもとにおかれている。というのは、それはつねに進歩すべく運命づけられている」[17]という相違である。

 ただし、「学問のばあいでは、自分の仕事が十年たち、二十年たち、また五十年たつうちには、いつか時代遅れになるであろうということは、だれでも知っている」[18]ことも、芸術との違いとして挙げられる。

7、学問的業績の意義

 「学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する」[19]。そして、「学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないで仕事をすることができない」[20]のであり、「この進歩は無限に続くものである」[21]

 このように、無限に続く学問ははたして、有意義なものであるのかという疑問が生ずるが、それへの答えは、「実際生活におけるわれわれの行為を期待された方向に導くためである」[22]というものである。

 しかし、それは実際家にたいする意義であり、「学問は「それ自身のために」なされるのである」[23]ともいえるのである。

 「それは人間生活一般にたいする学問の職分はなんであり、またその価値はどこにあるかという問題」[24]に逢着する。

8、ギリシア人における概念の発見

 学問の価値については、「むかしといまとでは考え方がまるで違っている」[25]が、その意義の自覚は、ソクラテスを嚆矢とする[26]

公民としての立場で物を考えたギリシア人にとっては、美だとか、善だとか、勇気だとか、霊魂だとか、正しい「概念」をみつけだすことが、公民としての生活において正しく振舞うことにつながると考えた。また、ここにギリシア人が学問に励む理由があった。

9、ルネッサンスにおける合理的実験

 ギリシア人における概念の発見と並んで、ルネッサンスの産物としてあらわれた学問研究の第二の手段は、合理的実験であった[27]。「実験を研究の原則にまで高めたものはルネッサンスの業績である」[28]というのである。

 ルネッサンスにおける学問は、「真の芸術に到達するための道を意味した」[29]。かれらにとって、「芸術は学問の位置にまで高められるべきものであ」[30]る。

 当時、精密自然科学が成立した際には、学問研究は、その固有の課題として神への道を期待されていた[31]。それは、「神をみいだすために哲学者を介するやり方は中世のものであ」[32]ることを、神学者のだれもがわきまえていたからである。

10、こんにちにおける学問の職分

 学問の意義に関する諸見解が、「すべてかつての幻影として滅び去ったこんにち、学問の職分とはいったいなにを意味するのであろうか」[33]という問いに対する答えは、すでにトルストイによって与えられている。「それは無意味な存在である」[34]というものである。

 その際問題となるのは、それがどのような意味で無意味なのか、ということであり、「正しい問い方をするものにたいしてはなにか別のことで貢献するのではないか、ということである」[35]

11、学問における前提

 学問における「「前提」がなにを意味するか」[36]、という問題がある。

 「医学の根本の「前提」は、通俗的には、たんに生命そのものを保持すること、およびたんに苦痛そのものをできるかぎり軽減すること、をその使命とすることであると考えられている」[37]

 あるいは、法律学を例にとれば、その解釈上の方法がいかなるばあいに有効と認められるかは確定するが、「法律はつくられるべきであるかどうかとか、これこれの規則は設定されるべきであるかどうかというような問いにたいしては、それはなにごとも答えないのである」[38]

12、政策は講学的ではないということ

 「実践的政策的な立場設定と、政治組織や政党の立場に関する学問的分析とは、まったく別のことだから」[39]政策は、教室で取りあげられるべきものではない。

 学生は、このような言説にたいして、「われわれはただの分析や事実の確定ではないなにかあるものを体験したくて講義に出ているのだ」[40]と主張する場合がある。これは、学生が講義者のなかに、教師ではなく指導者をもとめていることを意味する。それに対して、「教壇に立つのは教師としてのみである」[41]とウェーバーは答える。

本書の42頁13行で、われわれが生きていく上で学問は「無意味な存在である」というトルストイによる学問評が紹介されており、ウェーバーは本書において、むかしといまとでは考え方がまるで違っているとしながらも、学問の意義を考えることは、いまを生きるわれわれにとってはより切実なものとなって迫ってくる。

 ウェーバーは、それへの答えとして、「学問の職分」とその価値を問題視する。

 その答えを、ギリシア人においてはソクラテスによる概念の発見とし、第二に合理的実験であったとする。

 そこで重視されるのが、学問の「前提」である。ここで、ウェーバーは、医学の前提を提示する。「通俗的には、たんに生命そのものを保持すること、およびたんに苦痛そのものをできるかぎり軽減すること、をその使命とすることであると考えられている」[42]が、それをウェーバーは問題視する。

 「たとえ重態の患者がむしろ死なせてくれと嘆願したようなばあい」[43]は、医学と刑法では、医者にこの願いをきくことを禁じており、この問いじたいに対する答えを医学は用意していない。

 これは、ウェーバーの当時以上に、現代でも問題とされている。生殖医療や終末期医療にたいする明確な合意がないまま、それらは進められているのが、こんにちの実態ではないだろうか。  それについて、ウェーバーは次のように指摘している。「そもそもそれが技術的に支配されるべきかどうか、またそのことをわれわれが欲するかどうか、ということ(中略)についてはなんらの解決をも与え」[44]ない。(字数3,997)


[1] 『職業としての学問』尾高邦雄訳、岩波文庫9頁3-4行。

[2] 前掲書9頁6-7行。

[3] 前掲書10頁2行。

[4] 前掲書15頁6行。

[5] 前掲書17頁7-8行。

[6] 前掲書11頁13行-12頁2行。

[7] 前掲書18頁4-5行。

[8] 前掲書18頁14行-19頁1行。

[9] 前掲書20頁5-6行。

[10] 前掲書20頁9行。

[11] 前掲書21頁10-11行。

[12] 前掲書23頁6-7行。

[13] 前掲書24頁9行。

[14] 前掲書26頁14行。

[15] 前掲書27頁

[16] 前掲書28頁13行-29頁1行。( )内は、筆者によってつけくわえたものである。

[17] 前掲書29頁2-3行。

[18] 前掲書29頁14行-30頁1頁。

[19] 前掲書30頁4-5行。

[20] 前掲書30頁10-12行。

[21] 前掲書30頁12行。

[22] 前掲書31頁4-5行。

[23] 前掲書31頁8-9行。

[24] 前掲書35頁12-13行。

[25] 前掲書36頁1行。

[26] 前掲書37頁12行。

[27] 前掲書38頁10行。

[28] 前掲書38頁13-14行。

[29] 前掲書39頁7-8行。

[30] 前掲書39頁9行。

[31] 前掲書40頁。

[32] 前掲書40頁8-9行。

[33] 前掲書42頁10-11行。

[34] 前掲書42頁13行。

[35] 前掲書43頁3-4行。

[36] 前掲書43頁6行。

[37] 前掲書44頁13-45頁1行。

[38] 前掲書46頁9-11行。

[39] 前掲書48頁4-6行。

[40] 前掲書57頁11-12行。

[41] 前掲書57頁14行。

[42] 前掲書44頁13行‐45頁1行。

[43] 前掲書45頁

[44] 前掲書45頁11-13行。