町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

「民族芸能」vol.77らん丈の、我ら落語家群像

2001.08.01(水)

 林家三平師匠がおはこ十八番にしていた「源平盛衰記」にあるように”盛者は必衰”してしまうのが世のことわり理であり、人はそれを心待ちにし、盛者がいざ坂を転げ落ち始めると、それをみて手を叩いて喜ぶのが、古来、人と云うものの変わらぬ習いです。ですから、年末年始やお盆の雑誌休刊期前に出す週刊誌の合併号では、マスコミから消えた人の特集を組むのが恒例です。たとえば、今年のお盆前の合併号では「週刊文春」が”消えた女消された事件”を、「週刊新潮」では”人生「秋風烈日」の悲喜劇”を特集しています。

 あれほど流行っていたのに今では誰も見向きもしないという光景は、日常ではごく茶飯のことです。今日、誰がフラフープやルービックキュゥブに興じるというのでしょう。雑誌に話を戻せば、「フォーカス」が今月、通算千一号をもってその使命を終えました。創刊が一九八一年のことでしたから、その命脈は二十年で潰えたことになります。

 ぼくが前座として寄席への楽屋入りが許されたのは、「フォーカス」創刊の翌年のことでしたが、その当時の「フォーカス」の売れ方と云ったらなかったですね。何しろ楽屋入りする方々のうち、全部とは云えないまでも相当多数の芸人がそれを持ってきていました。あの雑誌はご存知のように、後生大事に末代までも家宝にして取っておくものとは対極に位置する出版物ですから、楽屋のそこかしこに打ち捨てられていたものです。

 それにつけても、写真雑誌の休刊の多さといったらどうでしょう。「LIFE」「太陽」「アサヒグラフ」、そして今回の「フォーカス」です。それを象徴的に云えば、麻原彰晃が法廷に引き出されたときにどんな態度を取っていようが、時の官房長官の女性スキャンダラスが明るみに出ようが、そこに雑誌を買うほどの動機を見出すことが出来なくなり、日本人は、その個に関わるiモードやEメールの方を大事にするようになったのです。

 ここでさか賢しらに、マスコミが発達すればするほど、人は逆に個人に関心を向けてしまう構造について、ぼくは言及する能力はないので、深入りした議論は出来かねますが、先月の参議院選挙における、さほど伸びなかった投票率と相俟って、個に閉じこもろうとする日本人に、つい思いを馳せてしまった今年の夏の「フォーカス」休刊でした。

 ただ、そんな日本の若者ではあっても、いざ寄席に連れ込むと、聡明な人に限って、面白いと云って楽しみ、中にはファンとなって下さる方がいらっしゃる。これは、初めの一歩さえ踏み出すきっかけを与えれば、今まで落語と云えば「笑点」以外には何の知識もないだけに、生の寄席を知ることによって、かえって落語を古臭いなぞという間違った先入観なしに楽しんでくれる層が、確実にいることを示唆しているのではないでしょうか。