町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

はるかぜ vol.3 2008年2月号市政報告『はるかぜ』

2008.02.01(金)

・ベスト&ブライテスト
・隈研吾(慶大)教授の「町田」観

ベスト&ブライテスト

 昨年(2007年)4月23日に亡くなられた米国のジャーナリスト、デイヴィッド・ハルバースタムは、ベトナム戦争の「泥沼(quagmire)」を予言し、1964年のピューリッツァー賞を受賞後、1972年には『ベスト&ブライテスト』を出版し、それは、ニュージャーナリズムのエポックメイキングを飾るに相応しい傑作と評されました。
 同作品は、米国随一の英知を集めた民主党ケネディ政権が、なぜベトナムの泥沼化を見抜けなかったのかを描いたものですが、そこでは、ケネディ政権に結集した“最良の、最も聡明なはずの人々”となった「神童」たちが、いかにして政策を過り、自らと国民を欺いていったのかを読者に提示しました。
 それを読んだ筑紫哲也さんは、1974年に、4年間にわたった朝日新聞社ワシントン支局での特派員生活を終える際に、ある出版社の社長から「米国で一番面白かった本は何だ」と尋ねられ、この『ベスト&ブライテスト』を挙げたところ、それがきっかけで同じくハルバースタムの『メディアの権力』を訳すことになったと、その経緯を語っていました。
 さて、目を戻し、日本のベスト&ブライテストを挙げろといわれれば、近頃評判は芳しくないもののやはり、国家Ⅰ種試験に合格した東大法学部を最大多数とする、いわゆるキャリア組といって、差し支えないかと思います。
 キャリア組は、日本の経済がキャッチアップ型の形態をとり、目指すべきモデルが確固として存在していたときには、その機能を遺憾なく発揮していました。
 その後日本は、1993年に国民一人当たりのGDPが世界1位となったことにより、経済的には世界の頂点に立つことになりました。
 すると日本は、追いつき追い越せのキャッチアップではなく、自ら進むべきモデルを世界に発信する役割を担わなければならなくなったわけです。
 そのとき、われわれが擁するベスト&ブライテストである官僚は、世界にどんなメッセージを発信したのか、読者のみなさんは覚えていらっしゃいますか。寡聞にして私は、存じておりません。
 世界に、日本の優位性をアピールする絶好の機会を、当時の日本のベスト&ブライテストは活かすことなく、その後、ずるずると日本は経済的に停滞し、2006年にはついに国民一人当たりのGDPが世界18位にまで後退してしまったのです。
 それ以前には、たとえば、1990年の大蔵省による不動産融資の総量規制が、日本のバブル崩壊の「犯人」だとする説も強固にあります。大蔵省といえば、当時日本最強のベスト&ブライテストだったことはいうまでもありません。
 ただ、戦後日本の高度経済成長をもたらした一因に、吉田茂首相のブレーンであった有沢広巳(東大)教授の発案といわれる、傾斜生産方式(石炭・鉄鋼等、主要産業の復興を優先する方式)が挙げられるのは明らかであり、それを主導した通産省官僚の手腕は当然評価されて然るべきです。このように、自ら成長モデルを作るのではなく、所与のものとされたときの官僚は、その力量を存分に発揮することができるのです。
 しかし、何度もいうように、官僚には世界に誇れる独自のモデルを創出する力には欠けるきらいがあるのは、否定できないようです。
 また、官僚という方々はときに、民間では思いも寄らないことを考え付くようです。
 最近ではたとえば、2008年2月2日に、東京都の職員約千人が、「緑の東京募金」と書かれた幟を手に募金活動に参加したのです。
 それは、東京都が2016年五輪招致に向け、10年間でサッカー場1500面分の緑地を増やす計画をたて、植樹などの費用を募金でまかなうための、8億円の目標達成を目指したPR活動だというのです。
 とんでもないのは、その際、職員はお揃いの緑のジャンパーを着込んだというのですが、そのジャンパー代約900円は当然税金であり、なおかつ、2日は土曜日だったために、休日出張費として一人『千円単位のお金が出る』というのです。
 所管の都環境局は1月31日、活動は職務で、実費交通費と超過勤務手当が支給されると参加者に説明。都によると、一般職員の超過勤務手当は、役職によって1時間1,500~4,000円、管理職は時間に関係なく1日1万円が支給されるというのです。
 さすがに、その休日出張費は石原都知事がやめさせたそうですが、ジャンパー代は公費です。ひとり一着約900円で千人ですから、合計約90万円。対して、この日に集まった募金は38万円だったそうです。
 こういうことは、民間では考えられないことです。
 さはさりながら、たとえば、牧原出(東北大学法学部)教授はこのように指摘しています。“本来、政党の政権担当能力は、官僚制の積極的な協力姿勢を引き出し、大胆な改革を行なえるかどうかにかかっている。”(読売新聞2008年1月5日朝刊)
 たしかに、牧原教授が指摘するように、政治家は官僚を敵に回しては、その協力を得ることは到底出来かねることです。
 ですから、町田市で言えば、議員は市職員の信頼を勝ち得ない限り、その協力を得られないのもまた、同じことなのでしょう。


隈研吾(慶大)教授の「町田」観

 ぼくは普段ほとんどテレビやラジオを視聴しないので知らなかったのですが、早稲田の学友と話していたら、あるタレントがラジオで、「町田市民ほど、自分の住む街(つまり、町田市)に深い思い入れを持っている住民はいない」旨の発言をしていたことを知らされました。
 なるほど、そういわれるとそうかもしれません。
 たとえば、2006年上半期の第135回直木賞を受賞した『まほろ駅前多田便利軒』の著者、三浦しをんさんは、町田市在住で、同作品も町田市と覚しき都市が舞台となっていますが、その舞台を彼女はこのように記しています。
 「まほろ市は、東京都南西部最大の住宅街であり、歓楽街であり、電気街であり、書店街であり、学生街だ。スーパーもデパートも商店街も映画館も、なんでもある。福祉と介護制度が充実している」「まほろ市民として生まれたものは、なかなかまほろ市から出ていかない。一度出ていったものも、また戻ってくる割合が高い」「外部からの異物を受けいれながら、閉ざされつづける楽園。文化と人間が流れつく最果ての場所」と。
 なるほど、概ねこの通りですね。特に最後の文章は、プロながらうまいことをいうものだなと、感じ入った次第です。
 さて、この町田を高く評価している建築家がいるのを、みなさんは御存じでしょうか。
 その建築家とは、慶應義塾大学理工学部システムデザイン工学科の隈研吾教授です。隈氏は実に多くの名建築の設計に携わってきましたが、近年では、東京ミッドタウン内のサントリー美術館が有名です。あるいは、村野藤吾賞を受賞した馬頭町広重美術館も然りです。ぼくが感動したのは、青山にある梅窓院という寺院です。
 そこでは、竹をふんだんに使ったしつらえが目を引き、この寺院の設計者はどなただろうと調べると、隈研吾に行き当たったというわけです。
 その隈氏と清野由美さんによる論考『新・都市論TOKYO』(集英社新書)が、町田を大きく採り上げています。
 そこでラインナップされている都市は、登場順に以下の通りです。汐留、丸の内、六本木ヒルズ、代官山、町田、そして北京。
 北京は中国なので、除外すると、東京の5つの都市が取り上げられているなかで、町田はその中で唯一、23区外に位置する都市です。
 では、どうして隈氏は、町田を取り上げたのでしょうか。その理由は、町田編冒頭の文章がなによりも雄弁に語ってくれています。
 “今、東京という都市の中で、どの街が一番面白いかと問われたら、僕は躊躇なく「町田」と「秋葉原」と答える。(中略)二つの街どちらにも共通するのは、リアリティとヴァーチャリティとの接合、しかもバッファー(緩衝材)の欠如した接合である。”
 “二〇世紀に登場した「郊外」という形式こそ、バーチャルな都市の先駆者である。様々な歴史、時間が染み付いているはずの「土地」の上に、その場所とは無関係な「夢」を強引に構築する方法で作られた街が「郊外」と呼ばれたのである。(後略)
 町田にはどこからか染み出てきたような、あか抜けしない泥臭さのようなもの―それをリアリティと呼んでもいいであろう―が、私鉄的なフィクションの隙間から顔を出し、流れんばかりの勢いで、街全体を覆っている。”
 隈氏は、町田の面白さを、「優等生的」面白さではなく、“二〇世紀的手法の限界を露呈している面白さ”と表現しています。それがために、上記のように、町田という都市にはリアリティが備わっているというのです。
 “こじゃれたファッションブティックの隣で、昔ながらの乾物屋が賑わいを呈し、また一歩路地に迷い込めば、外国人の客引きが風俗店へと誘う客を品定めしている。コーヒーショップの中では、明らかに風俗系と思われるお姉さんが、私鉄系の奥様やその子とおぼしき若者たちと隣り合ってカプチーノをすする。そんなわけの分からない混在がこの街では常態化しているのである。”
 隈氏は、“都市とは、そもそも相反し、矛盾するものが出会う場所”と規定し、“単一原理によって埋め尽くされた「村」と、都市との差異はそこにある”、というのです。
 また、隈氏はこうも語っています。
 “町田の駅前は血圧が高くて、下手すると熱病に感染しそうな勢いですね。”
 隈氏が指摘するように、町田市は活力に富んでいるがために、その活力が人を呼び、昭和33年(1958年)2月1日に町田町、鶴川村、忠生村、境村の1町3村が合併し、東京都で第9番目の市として市制を施行した当時は、人口が6万人でしたが、それから半世紀を経て今や、42万人を窺おうとするまでに伸張、発展できたのでしょう。
 もちろんそれは、人的資源に恵まれた町田市ならではの、先人の方々によるたゆまざる努力の賜物であります。だからこそ、“僕は町田を少し甘くみていたようです。この街は面白い。今まで見てきたどの街より面白いですよ”と、隈氏も讃嘆してくれているのでしょう。
 議員としてらん丈は、様々な提言を、一般質問等を通して町田市に常に問いかけています。その模様の一端は、らん丈のブログにてもご確認できます。是非一度ご覧下さい。