町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

樋口一葉『にごりえ』らん読日記

2004.10.03(日)

1、『にごりえ』におけるストーリーの意味
 さる(2003年)9月30日の朝日新聞夕刊に載ったインタヴュー記事で、吉本隆明が「今の小説はストーリーがないと面白くないというが、それはどうでもいいことで、文学は本質をできるだけ豊かに展開するものです」と発言していました。

 『にごりえ』にストーリーはもちろん存在しますが、しかしそれは、物語を展開させるためというよりも、T.トドロフがいうように、「表象された時間性をもった指向的テクスト」といったたたずまいを装っています。

2、『にごりえ』の書き出し
 この小説は、現代小説しか読んだことのないものには、いささか唐突に幕が開きます。それは、あたかも芝居のように、だしぬけに幕が開くのです。
 主人公であるお力と同じ店の私娼が、通行の男性に呼びかけるという、プレリュードが、それです。
 ただ、それであるがゆえに『にごりえ』の舞台である紅灯の巷という異世界に、読者を引き入れる効果はてきめんです。

3、言文一致への過渡期にあるがための混淆文
 会話と地の文が画然としていることがない混淆文、という体裁を『にごりえ』はとっています。
 会話を小説という器に盛る形式が、まだ確立する前に書かれた作品であるために、このような骨法となったのでしょう。

 まるで、落語をきいているような錯覚を読者におこさせる、書き方です。つまり落語では、地の部分を極力排除し、会話で話をつなげていきます。それにとてもよく似た話法です。

 対して現代小説は、講談に似て、地の部分=説明が大半を占め、会話が従となっています。
 このシンメトリーにはいささか興味をそそられました。

4、作品の背景
 『たけくらべ』では、主人公の美登利をとおして外側から吉原を描いていましたが、『にごりえ』では、本郷丸山福山町の新開地とおぼしき私娼窟を、主人公お力をとおして内側から描いています。

 銘酒屋菊の井の一枚看板のお力は、ふりの客である朝之助と馴染みになるものの、結局、彼女ゆえに日雇い人夫に身を落とした源七の兇刃にかかって落命するというのが、筋です。
 ただ、結びが曖昧であり、お力と源七の情死は無理心中なのか、合意のうえでのことなのか、判然とはしません。

 お力の遺体に見出された多種多様な「疵」が、その死についてのさまざまな矛盾した風説を惹起させますが、それこそがとりもなおさず、もともと矛盾し崩壊していたお力という存在自体となって、ついに理解されることのなかった彼女の孤絶の象徴として、読者の胸に迫る仕掛けとして機能しているのです。

5、お力にとって「救い」としての物語=『にごりえ』
 源七と朝之助、つまり二人の男性に並行して思慕される歓びに、お力は生きがいを覚え、そこに第一の「救い」を見出します。

 源七を落魄させ、「かすていら」事件を転機として源七とお初、太吉の家庭を崩壊させたことに、第二の「救い」を。

 それを契機に源七をしてお力を殺害させたこと、殺人者に仕立て上げ、そして切腹させたことに第三の「救い」を見出しました。

 一見加害者に見える源七は実は被害者で、彼を追い詰め、殺人の罪を犯させ、かつ自殺という滅亡へと至らしめた、つまり、源七を殺した張本人はお力であるという、逆転が起こり、さらに、お力は、源七に殺されることで、朝之助の恋慕も退けることに成功をおさめます。
 ここに、男への復讐を性命とするお力の第四の「救い」が見出せるのです。

 彼女の死が菊の井の経営を危うくさせ、それがひいては抱え主、あるいはそれに代表される金銭万能社会への抵抗を示し、ついに現世では叶えられなかったお力の金満願望が、世間に対する復讐の成就というかたちをとって第五の「救い」を得ます。

 つまり、もともと生ける屍に過ぎなかったお力にとっては、「死」こそ「生」であり、『にごりえ』は、お力にとっては、逆説的な喜劇を構成しています。

(5、においては、元専大教授関良一氏の論考を参考にさせていただきました)