町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

菊池寛『真珠夫人』(文春文庫)らん読日記

2003.08.28(木)

 ぼくが住む町田市には、昨年、市街地の一等地に“まちだ中央公民館”という名称の施設が新設されました。

 これは町田市に限りませんが、行政はどうしてこのように、固有名詞を、意味もなくひらがなで記そうとするのでしょうか。町田市であって、まちだ市ではないのですから、町田中央公民館でなんら不都合はなさそうなのに。あるいは、行政による固有名詞のひらがな化には、ぼくの知らないなにか重大な意味が隠されているのでしょうか。であるならば、その意味=謎は、是非とも知りたいところなのですが。

 まちだ中央公民館では、さまざまな事業が展開されていますが、なかに女性・男性問題講座というものがあり、その一環で「自主男女共生学級」があります。
 10年前にはほとんどだれも知らなかったはずなのに、それを聞かない日はないからこそいつの間にやら、今ではだれもが知っている、“ジェンダー(社会的文化的性差)”を意識した講座であることは、講座名からして、いうまでもないことでしょう。
 今年度は14のテーマで学級が開講されており、募集はそのうち13講座あり、ぼくは、“近代文学にみる男女共生”と題する学級に参加したのでした。講師は奇数月に、駒澤大学文学部国文学科の高田知波教授が勤めてくださいます。

 そこでは課題図書を決めて、月2回1回2時間にわたってディスカッションを繰り広げます。今年度最初の課題図書は、菊池寛著『真珠夫人』でした。
 この小説は、大正9年新聞に連載されたものですが、ぼくは見なかったものの近年テレビドラマ化され、高い視聴率を獲得したものですから、長らく絶版になっていた文庫が新潮と文春から再刊行され、それも大ヒットしたのは、みなさんもよくご存知のことでしょう。

 菊池寛という作家がいたことは、もちろん知ってはいました。
「文藝春秋」を創刊し、後に同名の出版社を起こし、それを株式会社化しその社長に就任し、芥川直木両賞を設け、文芸家協会を設立しその初代会長に就任し、東京市議会に議席を得る、などその行動性からスノッブな作家という面が強調されていますが、さて作品となると、『恩讐の彼方に』『父帰る』等日本近代文学史に欠かせない作品があるために、その名前は知ってはいても、読みたいというインセンティヴはついに得られなかったのがぼくにとっての、菊池寛という作家でした。

 ところが今回は、課題図書なので読まないわけにはいきません。
 いざ読み始めたところ『真珠夫人』は、新聞小説といってしまえばそれまでですが、文学の香りは求めても詮無い、川端康成も指摘するように、それは「通俗小説」だったのでした。
 ただ、新聞小説といっても、夏目漱石の少なくない作品も新聞小説だったことを思い合わせると、較べてはいけないほどに、両者は離れへだたっているのです。

 この小説の瑕疵を挙げていけばキリがないのですが、なによりも罪なのは、つまらない、ということです。「それを言っちゃあ、お終いよ」といわれるかもしれませんが、事実なのだから、仕方がありません。一体この作品のどこに江湖に迎えいられるような要素があったのか、不思議に思いながら読んだのでした。

 それでも、この小説は“売れた”ということでは成功しているのですから、その理由を考えてみましょう。売れたからといって、すべてが傑作とは限りませんが、売れるからには、売れるだけのなんらかの理由があるはずですから。

 本作が新聞に連載された大正9年当時は、大正デモクラシーの自由な風に乗って、女性の社会進出というものが、日本の近代史上初めて実現したことにより、その新しい女性像を描いた小説を望む風潮があった。
 また、近代化を成し遂げた日本では女性といえども教育を受けることが珍しいことではなくなり、その結果知育を経たため大幅に女性読者が増えたものの、その知識欲と読書欲を併せて満足させるような新しい小説はいまだ発表されてはいなかった。
 そこに供されたのが、本作なので、読者は主人公に自らを没入して読める初めての小説を得た思いで、迎え入れたのではないかと思ったのでした。

 また、以下に記すような、貴種への無防備とも思える好感をときに有する女性特有の性向も挙げられます。
 それは、女性は上流階級への憧憬を無造作に表すことがあり、それがために女性週刊誌では毎週のように皇室を話題にすることや、主婦を主な視聴者と想定する平日午後の民放ワイドショーでは、皇室を取り上げるのが定番となっていることを指します。あのような無批判な皇室崇拝は、一般の男性誌では考えられないことでして、女性誌特有の現象です。

 男爵の娘である主人公が、姦計に屈した父親のために、その姦計を張り巡らせた成金と結婚したものの、身体を許さぬうちに、夫はその子供に殺されるようなかたちで絶命し、その後は、未亡人として、社交界に君臨し、居並ぶ男たちを手玉にとるように振る舞う主人公に、女性読者は現実生活では味わえない高揚感と憧れを具現化したものを感じ取り、その結果主人公に共感を抱き、広く迎え入れたのでした。

 ただ、その小説が、大正から遠く隔たった平成の今日、かくも広く迎え入れられるとは、どうしてなのでしょうか。男女共同参画社会基本法が施行されたとはいえ、大正とは大きく時代が隔たったとはいえ、女性を取り巻く環境はさして見るべき変化はないということなのでしょうか。
 そんなことを考えさせられた、『真珠夫人』のリバイバルなのでした。