町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

佐和隆光『経済学とは何だろうか』(岩波新書)らん読日記

2003.05.13(火)

著者:佐和 隆光〈京都大学〉名誉教授

 本書において何よりも重要なのは、執筆された時期です。発行されたのが、今から20年以上前の1982年2月ですから、おそらく大半は1981年に執筆されたものと推定されます。
 20世紀末期の社会主義陣営の崩壊とともに冷戦構造が消失したのに伴い、世界的に政治が保守化している趨勢が読み取れるこの10年の政治動向のもと、経済学も保守化している現状を佐和は、本書で先取りして執筆しているとも、あるいは経済学ではゲーム理論、内生的経済成長論、ニューエコノミー論、複雑系経済学等の擡頭はあったものの大勢においてはさほど大きな変化がなかった、ともいえる1952年からの20年だったことを、結果的に証明しているのが本書であると、そう位置づけることも可能です。

 そもそも本書は、「資本主義経済の運動法則を解明する」マルクス経済学と訣別し、「稀少資源の最適配分を研究する」近代経済学を1960年代初頭に学び始めた筆者によって、その後20年間にわたって経済学を仕事としてきたひとりの人間として、自らの研究体験を通して「経済学とは何だろうか」という設問に対してひとつの回答を与えたもの、にほかなりません。
 その間を時系列で概観すれば、60年代初頭とは、近代経済学にとっては「ロマンチック時代」と呼ぶにふさわしい社会と学問との蜜月期と重なり、70年代は、新古典派総合の経済学が根源的な批判にさらされ、経済学が解体へと向かい、その批判が後退すると、保守派経済学が擡頭し、従来からあるマネタリズムなどと結びついて、合理的期待形成学派、サプライサイド経済学などの超新古典派が相呼応して、ひたすらケインズ経済学を糾弾し始め、これら反ケインズ経済学は、英米における保守政権の誕生に助けられて、現実政治に対しても多大な影響を及ぼすようになる、起伏に富んだ20年だったのでした。

 ここでもう一度、1950〜70年代の米国における経済学の動向と、経済学の既習者にとってはごく基本的な用語ではありますが、このコラムをごらんの方すべてが経済学を学んだ方とは限らないのであらためて経済学の用語を、本書をもとにたどってみましょう。
 50〜70年代にかけて新古典派の経済学とケインズ派の経済学が、それぞれの役割分担を明確にしたうえで、米国において主流派経済学の地位を占有し続けました。
 新古典派の経済理論は、完全競争などの仮定のもとに「市場機構」が最適な資源配分に導くこと(アダム・スミスのいう「見えざる手」の存在)を数学的に証明し、科学としての没個性を装いながら、自由主義経済が最適体制であることを主張します。
 また、ケインズの経済理論は、第一次大戦後の資本主義体制下において、アダム・スミス流の自由放任は許されず、個人の利益と公共の利益を合致させるためには、ある程度の政府介入が必要不可欠なことを主張します。
 一見したところ、まるで相対立するかのようにみえる二つの経済理論は、第二次大戦後、アメリカの経済学者の手によって巧みに総合され、「新古典派総合」の経済学として、その後の四半世紀にわたり、アメリカ社会の価値規範の一部として席巻します。
 また、1960年代の高度経済成長は、多くのマルクス経済学者の「マルクス離れ」を促しました。
 そして、上記の新古典派経済理論は、60年代末から70年代前半にかけて近代経済学者によって根源的な批判を受け、それは、きわめて広範な社会的反響を呼びました。
 ところがわずか数年後には、超新古典派とでも呼ぶにふさわしい合理的期待形成学派によって、ケインズ経済学は右側からの猛攻撃を受けることになります。
 合理的期待形成学派とは、「個人や企業が、経済システムについての知識を十全に生かして期待形成を行い、それに基づいて最適行動する」という仮定を、在来の新古典派経済学に組みこんだ経済理論です。これによって、ミルトン・フリードマンを盟主とあおぐマネタリストと呼ばれる反介入主義者が一気に活気づいたのです。
 また、しばしばケインズ経済学とは裏腹な結論を導く、サプライサイド経済学も支持を拡大します。それは、供給重視の経済学とも呼ばれ、個人のインセンティヴを強調することによって、もっぱら減税政策を主張します。

 以上、まことに簡単ながら50〜70年代にかけての経済学の流れをたどりましたが、佐和が本書で“経済学の歴史を思いきり単純化して眺めれば、それは、「介入主義」と「反介入主義」という両極間の往来にすぎなかったのではあるまいか”と述懐しているように、その流れのうえに、今日の日本政府における経済政策の迷走ぶりも、説明できるのではないでしょうか。
 つまり、竹中経済財政・金融担当相が掲げる「構造改革」とは、供給力を強化しようとするものだから、需要不足は拡大し、景気回復にはつながらないといった批判があります。
 そこで、需要を拡大しようとすれば、今度は国と地方をあわせて700兆円に及ぶ財政赤字を拡大させることになり、国債の乱発につながると、これを批判するのが「構造改革」派です。

 ただ、不況で需要不足といっても、たしかに在来型の供給に対する需要は乏しくなってきています、たとえば、狐や狸しか通らない道路などの公共工事、けれど、逆に供給不足とみられる分野も少なくないのが実情ではないでしょうか。たとえば、満足な医療サービスを受けていると実感している患者さんがなんと少ないことか、あるいは、保育所に入れずに順番待ちをしている待機児童が全国ではいったいどれほどいるというのでしょうか。あるいは、介護サービスへの不満等、数え上げていったらキリがありません。
 むしろ問題は、日本の供給構造が高齢成熟社会の需要構造に対応したものへと、転換していないことにあるのではないでしょうか。そこで待望されるのは、島田晴雄と吉川洋が主張する「需要創出型の構造改革」であるという『痛みの先に何があるのか』(東洋経済新報社)で展開する説に、ぼくは痛く共感するのです。

 閑話休題。本書は冒頭でも記したように1980年代初頭に執筆されたために、70年代の新古典派経済学への批判=ラディカル経済学運動に多くのページを割いていること等、今日の経済学の状況からみて、多くの意味を見出すことが難しい記述が散見されるものの、総体では、今でも充分にその主張することに、同意と教えられることが多い書であることに変わりがありません。むしろ、80年代初頭という、ぼくが経済学になんの興味も関心も抱いていない時期に書かれたものだけに、当時の経済学について知る上では、欠かせない書であるといえます。それがために、昨年の8月に本書は復刊されたのでしょう。
 最後に一点、本書の特徴であり瑕疵を挙げれば、文章が社会科学エッセイにしては、過度に文学的なところです。