町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

奥田英朗『空中ブランコ』(2004年上半期・第131回直木賞受賞;文藝春秋刊)らん読日記

2004.11.16(火)

 まだ一ヶ月以上あるものの、今年も残り僅かとなりました。そこで、2004年を振り返って、今年最も面白く、楽しめたエンタテインメントを今回は採り上げました。

 それは今期の直木賞受賞作でもある、奥田英朗の『空中ブランコ』です。
 この作品集は、トンデモ精神科医、伊良部一郎を主人公とした表題作を含む5編からなる連作短篇集であり、いずれも初出は「オール讀物」でした。
 後に、フジテレビによってドラマ化されましたし、映画化もされたので、ごらんになった方も多々いらっしゃることでしょう。

 前作品集として『イン・ザ・プール』があり、同作も直木賞の候補に推された快作です。

 同賞銓衡委員の林真理子は、選評で同作品を次のように記しています。
 “奥田英朗さんの小説のおかしさというのは、漫才や落語にも通じる間のよさを持っている。深刻な内面吐露が続いたかと思うと、ひょいとそれをはじきかえすユーモアが顔を出すのだ。今回受賞作の「空中ブランコ」に、何度声をたてて笑ったことであろう。”
 まさにこの通り、ぼくも声をたてて笑いながら読み進めたものです。

 なによりも、主人公の医師、伊良部の造形が素晴らしい。職業として、意外な人物が主人公を務める小説ということであれば、大金持ちの刑事を主人公にした、筒井康隆の異色作『富豪刑事』を思い出しました。

 そのうえに、この連作を通底する物語が巧みであり、秀逸なのです。
 奥田はこの一連の作品のなかで、精神科医=伊良部を患者と同じ症状に陥らせてみせる、むしろそれもより重い症状に陥らせる、そのことによって、患者に自分自身の症状を気づかせ、逆に患者に医師の役を演じさせたうえで、治癒に導くという物語を作り上げたのです。

 これは、実に鮮やかにして巧妙なる結構です。なぜならば、精神科医を受診する患者は多くの場合、精神になんらかの異状を来たしているのですし、そのうえに、精神科医自身も異常であるならば、読者を速やかに、自然に異界へと拉することができる構造だからです。

 では、どんな患者が登場するのでしょうか。5編ですから、5人の患者です。
 空中ブランコから落ち続けるサーカス団員、尖端恐怖症のやくざ、鬘をかぶった義父(医学部長)を持つ医学部講師、制球がままならないプロ野球三塁手、常に既に同じストーリーを書いていると思い込んでしまう女流作家。

 その患者に治療を施すのが、先述のように破天荒なる医師、伊良部一郎。この命名は、野球好きな作者が、元阪神の投手伊良部とマリナーズのイチローを足したものなのでしょう。

 加えて異界感を増すことに大いなる貢献を果たしている、肉感的な看護婦マユミ。ちなみに、作者はわざと看護士ではなく看護婦と記し、マユミの女性性を強調しています。

 では、伊良部がどれほど破天荒なのか。伊良部の同級生でもある医学部講師の悩みにこう答えるのです。
 「あのな、おれ、高校は渋谷の公立に通ってたんだけど、近くに『金王神社』っていうのがあったわけよ」
 「うん、知ってる。並木橋の先でしょ」
 「そうそう。その並木橋の交差点を過ぎて坂を上がった途中に歩道橋があって、その横っ腹に『金王神社前』と書いてあるわけ。バスがその下を通るたびに、クラスメートたちと、ああ、あの『王』の字に点をつけて『金玉神社前』にしてえなって……」
 「あはは」伊良部が腹を抱えて笑った。「誰もやらなかったの?」
 「さすがに躊躇したよ。ぶら下がるの、危険だし」
 「じゃあ、今夜やろうか」マージャンやろうか、と同じ口調で伊良部が言った。「代償行為の一環。面白そうじゃん」

 こういう医師なのですよ、伊良部という医師は。普通は、諌めるでしょ。ところが、伊良部は面白がってそそのかすのですから、面白いのです。

 そんなところから、銓衡委員の井上ひさしは「奥田さんが初めて作った現代的な笑い」と評価するのです。

 受賞の記者会見で、奥田はこう言っていました。
 「丸く線を引いて、円だと示すのが説明。丸の余白を塗りつぶして、円と認識させるのが描写です」
 なるほど、うまいことをおっしゃる。

 筋やテーマよりも「人間の、ふとしたことで垣間見える小さな真実」を重視している作家、奥田英朗が記した『空中ブランコ』は、「裁かず、説明せず、自分すら疑」ったうえで成立した、まったく新しい笑いを読者にもたらすことに、見事に成功した秀作です。
 まずは書店で、本作品を手にお取りください。石崎健太郎による装丁も見ごたえがあります。