町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

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わが母校、慶應義塾、一橋、早稲田、立教大学

慶應義塾大学 🌟革新の連続が、伝統をつくる

 慶應義塾の起源は、1858(安政5)年のこと福澤諭吉江戸築地鉄砲洲にあった、諭吉の国許である中津藩奥平家の中屋敷(現在の東京都中央区明石町、聖路加国際病院の辺り)に、藩命を受けて開いた蘭学塾にまで遡ることができます。
 同塾は1863(文久3)年に英学塾に転向した後、1868(慶應4)年には時の年号にちなみ塾名を慶應義塾と定め、近代私学として歩みはじめました。

 1890(明治23)年には、Harvard Universityの協力により大学部を開設し、文学科(のちの文学部)・理財科(のちの経済学部)・法律科(のちの法学部)の三科を設置することで、当時私学には認められていなかった大学への志向を鮮明にし、わが国における私学では最初の、総合大学にいたる礎が築かれました。

 ここに、福澤諭吉が1896(明治29)年におこなった演説の一節にある『慶應義塾の目的を、掲出いたします。
 慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず
 其目的は我日本国中に於ける気品の泉源、

 智徳の模範たらんことを期し、
 之を実際にしては居家、処世、立国の本旨を明にして、
 之を口に言ふのみにあらず、
 躬行実践、以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり

 1920(大正9)年2月には早稲田大学とともにわが国の私立では最初に、大学令にもとづく大学に昇格し、文・経済・法・医学部からなる総合大学が形成され、そこに大学院を付設しました。

創立50周年を記念して1912(明治45)年に竣工した図書館旧館は、曾禰達蔵と中條精一郎による設計で、赤煉瓦造り、ネオ・ゴシック様式の建物。1969(昭和44)年に、国の重要文化財に指定されました。

慶應義塾大学大学院 法学研究科単位修得科目

三田キャンパスの「幻の門」から見た、東館です。アーケードの上部にはラテン語で、「HOMO NEC VLLVS CVIQVAM PRAEPOSITVS NEC SVBDITVS CREATVR」(天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず)という福澤諭吉『學問のすゝめ』劈頭にある有名な警句が、しるされています。

 1890(明治23)年に設置された大学部法律科の初代主任教授は、Harvard University出身のJohn Henry Wigmoreでした。1898(明治31)年には政治科を増設し、それが現在の法学部政治学科大学院 法学研究科政治学専攻へとつながります。

 法学研究科政治学専攻の学問領域は、次の5系列に分かれています。政治思想、政治・社会(政治学・行政学と社会学・メディア論)、日本政治、地域研究・比較政治、国際政治です。
 教員は原則としていずれかの系列に属し、自分の専門分野を中心として特殊研究と特殊演習を主に開講しています。それぞれの領域において、これまでの研究を継承・発展させるとともに、新しい研究対象の開拓にも取り組んでいます。

 今後の政治学研究においては、アジアがますます発展するにつれて、日本発の政治学の理論が、国境と地域を越えて普遍性を持ち得るかどうかが問われています。また、理論、思想、歴史の研究を基礎としつつ、現実との緊張関係を維持し続けるためにも、政策指向性の高い研究にも取り組んでいます。

 2009(平成21)年度には、「政治」に強い公務員・政策専門家の養成を目的として公共政策専修コースが設置され、同専修コースにて修学した際、政治・社会領域の片山善博教授〈慶應義塾大学⇒早稲田大学⇒大正大学、元総務大臣・前鳥取県知事指導教員をつとめていただき、「修了証(公共政策)」を授与されました。✴2013年度 政治学専攻定員50名:志願者71名、入学者28名

speechを演説、debateを討論と訳したのは福澤諭吉ですが、1875(明治8)年に竣工した三田演説館は、わが国最初の演説会堂であり、外壁は板瓦貼り海鼠壁です。1967(昭和42)年に、国の重要文化財に指定されました。

慶應義塾大学 文学部単位修得科目

 慶應義塾は1890(明治23)年に、文学科・理財科・法律科からなる大学部を開設し、文学科は、アメリカ北東部の名門8大学によって構成されるアイビーリーグの一角を占める、Brown Universityで修辞学と近代言語を講じていた、William Liscombを主任教授に迎えました。

三田キャンパスの図書館旧館は、国の重要文化財に指定されています

 文学部での逸することのできないコンテンツとして、「三田文學」を欠かすことはできません。同誌は文学科顧問、森鷗外上田敏の推挙によって義塾教授に招聘された永井荷風を編集主幹として、1910(明治43)年に創刊されました。その後、1985(昭和60)年からは会員制の三田文学会によって、今日に至るまで発行されています。

 同じ文学部でも、1981(昭和56)年に卒業した立教大学文学部では、キリスト教学科だったため「神学士」を受けました(その後学則が変更され、同学科を卒業しても「学士(文学)」を授与)。同学科では、文学関連科目を12単位(「近代日本文学史」[4] ,「講読」2科目[8])しか履修しなかったので、義塾文学部では第3類(後述)に入学いたしました。

 慶應義塾大学通信教育部は1947(昭和22)年に設置され、翌年夏に、わが国で最初のスクーリングが実施されたことは特筆すべきことです教員組織は通学課程と同じ教員で構成され、文学部通信教育課程は、哲学を主とする第1類(哲学,倫理学,美学美術史学,図書館・情報学,社会学,心理学,教育学,人間科学専攻)、史学を主とする第2類(日本史学,東洋史学,西洋史学,民族学考古学専攻)、文学を主とする第3類(国文学,中国文学,英米文学,独文学,仏文学専攻によって構成されています。
✴文学部募集人員3,000名;2016年4月の新規入学者数:文学部第1類193名、第2類55名、第3類107名

発行:慶應義塾大学文学部 文学系・国文学専攻
1926(大正15)年に竣工した、三田キャンパスの塾監局(法人本部棟)

教育課程編成・実施の方針(カリキュラム・ポリシー)
 文学部(通信教育課程)は、卒業認定・学位授与の方針(ディプロマ・ポリシー)を実施するために、総合教育科目(必修外国語を含む)および専門教育科目から構成される教育課程(カリキュラム)を編成します。それぞれの科目の編成・実施の方針は、以下に示すとおりです。
 文学部(通信教育課程)の研究教育の対象は、人文学、社会科学に限定されるものではなく、自然科学や学際的な分野も包含する幅広さと多様性を特徴とします。したがって文学部の教育課程も多様な科目や分野によって編成されます。特に総合教育科目(必修外国語科目を含む)においては、学士課程での学びの軸となる幅広い見識、学習のための基礎的技能、着実な言語運用能力の形成をめざした科目編成や授業運営を実施します。また専門教育科目においては、所属する類にかかわる基礎的な知識を基盤として、学生が自らの学習を進め、次第に高度な専門的学識や技能を習得することができるような教育課程を編成・実施します。さらに所属する類以外の専門教育科目等の履修も可能とし、学生が自ら定めた研究・学習課題をさまざまな授業科目や学習機会によって達成できるような教育課程を編成・実施します。
 学生は入学に際し、3つの類(第1類:哲学を主とするもの、第2類:史学を主とするもの、第3類:文学を主とするもの)のいずれかに所属します。専門教育科目の履修においては、所属する類に分類される専門教育科目から28単位以上を取得することが求められます。ただし、本学文学部が取り扱う多種多様な学問分野で学び、幅広い見識を身に付けることが求められることから、履修可能な科目を所属する類の科目に限定せず、将来的に自らが目標とする卒業論文のテーマに向け、学生は自由かつ横断的に履修・学習を行うことを可能としています。

一橋大学 🌠社会科学系で唯一の指定国立大学法人

 日本で最も伝統のある社会科学の研究総合大学として、常に学会をリードしてきた一橋大学は、「我が国の人文社会科学分野において教育研究の卓越性を誇る大学」として、2019(令和元)年9月に文部科学省によって指定国立大学法人に指定されました
  指定国立大学法人(東北大学、東京大学、東京工業大学、一橋大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学;当時7大学:その後、筑波大学、東京医科歯科大学、九州大学が追加)のうち社会科学系大学は、一橋大学のみです

建築家の伊東忠太によって設計されたロマネスク様式の兼松講堂。建物正面にマーキュリーの校章と鳳凰、獅子、龍のレリーフがあります。

 一橋大学の建学理念はCaptains of Industryであり、これは、イギリスの思想家にして歴史家、Thomas Carlyleが1843(天保14)年に著した、“Past and Present” (邦題『過去と現在』)にみる文言です。
 「Captains of Industryとは、混沌、必然、諸悪に対して戦い、人類を導く真の勇者である」ことから、一橋大学は、国際的に通用する産業界のリーダーたり得る人材の育成を、使命としてきました。
 一橋大学はこれまで一貫して、単に西洋式の「商法」ー「商い方」を身に付け、即戦力になる人材を供給することだけではなく、Captains of Industryにふさわしい実業人の育成を目標としてきました。

 一橋大学は国立大学法人でありながらその濫觴は、1875(明治8)年に初代文部大臣をつとめた森有礼が、東京銀座尾張町(GINZA SIXのある場所)に創立した、商法講習所という私塾でした。
 その後所管が、東京会議所(商工会議所の前進)、東京府、農商務省、文部省と変遷し、学校の名称も東京商業学校、高等商業学校、東京高等商業学校を経て、1920(大正9)年には大学昇格を果たして官立東京商科大学となりました。その後戦中の、東京産業大学を経て、戦後、東京商科大学の旧名にもどりました。東京商科大学は1949(昭和24)年の学制改革に伴う新制国立大学として、一橋大学と改称し、社会科学の総合大学となりました。

 東京商科大学となった学校は、社会科学のあらゆる学科を備え、哲学、歴史、文学の領域でも錚々たる学者を揃えて、広く欧米でも知れ渡っていました。その学問水準の高さは、近代日本の学問史上でも瞠目に値します(大月康弘〈経済学部〉教授「如水会々報」2022年4月号6頁)。

 一橋大学は、市民社会の学である社会科学の総合大学として、リベラルな学風のもとに日本における政治経済社会の発展とその創造的推進者の育成に貢献してきたことに鑑み、一橋大学研究教育憲章を定めています。 

兼松講堂は、ロマネスク様式の建物で、権威主義でもなく合理主義にも流されず、伊東忠太博士による縦横無尽な表現が随所に見られます。2000(平成12)年に、国の登録有形文化財に選ばれました。

一橋大学 国際・公共政策大学院単位修得科目

 国際・公共政策大学院の理念は、次のようにしるされています。
 専門性、実践性への要求の高まりは、国際組織、国や自治体、NGO/NPO等における国際政策および公共政策の立案と執行等の場面においても生じています。 一国、一地域の視点のみから見た政策は通用しなくなってきており、あらためて公共性とはなにかが問われる時代において、法律学、経済学や国際関係等の広い視点と高度な専門的分析力が、国際・公共政策の担い手にとって必要となってきました。さらに、能力主義の流れのなかで、組織の中での個人の力量が真に問われる時代となってきています。

1930(昭和5)年に竣工した、附属図書館正面玄関となる時計台棟。

 一橋大学では、このような環境変化のなか、法学研究科と経済学研究科が連携して専門職大学院である国際・公共政策大学院を設置し、公共政策の課題を発見して、自らその解決を図ることのできる人材の育成を目指します。その基本理念は次の4つです。
基本理念 1 先端研究の基礎に立つ高度専門教育
基本理念 2 横断的分析による複合的視点の育成
基本理念 3 政策分析における多角性と実践性の重視
基本理念 4 アジア・太平洋における拠点の構築と世界への発信力の養成

平成23(2011)年度「一橋大学国際・公共政策大学院 秋季社会人特別選考 第2次試験(小論文)問題〔公共法政プログラム〕(試験時間90分)

 研究論文の主査は、高橋滋教授(行政法、環境法)に、副査は、薄井一成准教授(行政法、地方自治法)につとめていただき、「国際・行政修士(専門職)」を授与されました。

国立西キャンパスにある附属図書館時計台棟。1930(昭和5)年の国立移転と同時に竣工した附属図書館正面玄関にあたる時計台棟は、建築家伊東忠太と文部省との共同設計といわれています。

早稲田大学伝統を基盤に、進化を続ける学びの杜

1927(昭和2)年に創立45周年記念事業として落成したゴシック様式の大隈記念講堂は、2007(平成19)年に国の重要文化財に指定されました

 「一国独立の基礎は自主独立の精神にあふれた国民の形成にある」との信念を持っていた大隈重信には、教育に対する大きな情熱がありました。明治14年の政変で下野した翌年(1882年)には、早稲田大学の前身となる東京専門学校を創設しました(「早稲田大学ガイドブック2022」p.6)。
 1907(明治40年)4月に初代の早稲田大学総長に就任した大隈重信は、 1913(大正2)年の創立30周年記念式典において、早稲田大学教旨を宣言しました。
 早稲田大学の教育の基本理念を示す早稲田大学教旨の起草委員は、天野為之坪内逍遥浮田和民松平康国塩澤昌貞金子馬治中島半次郎らによって構成され、最終草案に大隈の意見も入れて下記の教旨が制定されました。その後、1949(昭和24)年に、一部の語句を削除して現行の教旨に改定されました。

早稲田大学教旨
早稲田大学は学問の独立を全うし学問の活用を效(いた)し模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す
早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て之が自由討究を主とし常に独創の研鑽に力(つと)め以て世界の学問に裨補せん事を期す
早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て学理を学理として研究すると共に之を実際に応用するの道を講じ以て時世の進運に資せん事を期す
早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て個性を尊重し身家(しんか)を発達し国家社会を利済し併せて広く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す

 1920(大正9)年2月には慶應義塾大学とともにわが国の私立では最初に、大学令にもとづく大学に昇格し、政治経済・法・文・商・理工学部と大学院を設置しました。

早稲田キャンパスにある、本学創立50周年と大隈重信没後10周年忌に合わせて1932(昭和7)年に除幕された、「東洋のロダン」朝倉文夫作の大隈重信銅像(新宿区指定有形文化財(彫刻))。
学祖大隈重信の言「喬木は風雪に耐えて愈々高し、樹根は大地に張って愈々深し、天下に憂いをいたして想いかえして考えるんである。高く飛ばんと欲すれば深く学ばざるべからず」。

早稲田大学大学院 法学研究科単位修得科目

早稲田大学26号館大隈記念タワー校友サロンからの早稲田キャンパス

 早稲田大学は、1882(明治15)年に東京専門学校として開校しましたが、当初は、政治経済学科、法律学科、理学科の三本科を設けたうえに、英学科も設置して希望する学生に兼修させました。
 1890(明治23)年には坪内逍遥が中心となり文学科を創設し体制を整えた東京専門学校は、1902(明治35)年には大学部を開設し、校名を「早稲田大学」と改称しました。
  創立25年を迎えた1907(明治40)年に制定された、別名「都の西北」と称される早稲田大学校歌は、文学科を卒業した相馬御風の作詞によるものであり、その一番に「進取の精神」とあります。
 それを体現するものとして、東京大学において政治学は文学部の一学科に過ぎなかったものを東京専門学校は、国家学あるいは国法学の一部としての政治学ではなく、経済学と結びついたものとして政治経済学科を学科の筆頭に掲げました。さらに、政治学の独立を主張し、1884(明治17)年には名称を政治学科と改称しました。しかも東京大学の政治学がドイツ流であったのに対して、政治経済学科はイギリス流の政治学を採用しました。

 法律学科もイギリスを範とした学理を採用し、1886(明治19)年に定められた私立法律学校特別監督条規により、「五大法律学校」の一角を占めるまでになりました。その法律学科以来の伝統を継ぐ法学部と大学院法学研究科は、大学院法務研究科(法科大学院)、比較法研究所、法務教育研究センターとともに、法学学術院を形成しています。法学研究科では民事法学を専攻し、研究課題は「社会保障・社会福祉の法と政策」でした。

 修士論文の指導教授は、菊池馨実教授(社会保障法)に、副査は、田山輝明教授(民法)と宮島洋教授(財政学)につとめていただき、「修士(法学)」を授与されました。

大隈講堂に正対して立つガウン姿の大隈重信銅像は、1932(昭和7)年の創立50周年に際して除幕されたもので3代目の銅像となります。

早稲田大学大学院 社会科学研究科単位修得科目

大隈記念講堂は、早稲田大学建築科の創設者佐藤功一教授とその門下、佐藤武夫教授が設計し、構造設計は内藤多仲教授が担当され、時計塔の高さは、大隈重信が生前唱えていた人生125歳説にちなんで125尺(約38m)あります。

 社会科学部の4年次、大学院社会科学研究科への推薦入学試験に合格しました。社会科学部と社会科学研究科は、社会科学総合学術院の中核を担う機関です。同研究科では政策科学論を専攻し、市民社会研究分野のうち、後藤光男教授による【現代人権論】研究演習を履修したうえで、後藤教授には修士論文の主査をつとめていただき、副査は、久塚純一教授(社会保障法)清水敏教授(労働法)につとめていただきまして、「修士(学術)」を授与されました。

大学院社会科学研究科 地球社会論・政策科学論専攻
 現代的課題を、総合的・学際的に解決できる研究者や実務家を養成する研究科。
 社会科学の諸分野は19世紀以降、細分化・専門化によって発展し、精緻な理論形成という成果をあげてきました。しかし、その一方で各分野が自己閉鎖的に独立する結果を招き、領域横断的な視野が損なわれる弱点を生み出しました。
 また、現実社会は、globalizationやregionalizationが加速し、環境問題に代表されるように地球規模の課題を数多く抱えるようになってきています。
 これらの諸問題は、政治・経済・法律・文化など諸要素が複雑に絡み合うために、その解決には従来の個々の学問分野だけではなく、社会科学の総合的・学際的なアプローチが必要となってきています。
 そこで、こうした現代的課題を解決するために、社会科学・人文科学・自然科学のそれぞれの分野の専門研究者が、研究科の基本的理念である社会科学の総合化および学際化をめざして研究・教育・指導に当たっています。

早稲田大学 国際文学館(村上春樹ライブラリー) 改築設計は隈研吾氏

早稲田大学 社会科学部単位修得科目

大隈記念講堂のファサード。天井の明かり取りを見上げると、中心に太陽、周りに月が配され天井一面の照明は煌めく星々を象徴しています。永遠なるものが、集える学生を見守っているのです。

 早稲田大学に社会科学部が呱呱の声をあげたのは、1966(昭和41)年でした。早稲田大学にはすでに政治経済学部、法学部、商学部といった学部において、社会科学系のそれぞれの専門分野に関する教育が分科された形で行われていました。
 社会科学部は、そうした社会科学系専門分野を統合的、学際的に一体化したカリキュラムによって構築し、社会科学の総合を旗印にして、「細分化された知識よりも、国際的・学際的教育・研究を担うという理念の下に、社会科学に関する基礎知識を総合的に学ぶことのできる学部」として設置されました。

 社会科学部に学士入学し(2005年度入試結果:募集人員=若干名、志願者数34名⇒合格者数5名・2020年度入試より社会科学部は、学士入学試験の募集を停止しています)、 ゼミナールは、大久保皓生先生が担当されていた地方自治と行政を履修しました。なお、大久保教授の本務校は中央学院大学で、先生はその第10代学長をつとめられたのち、名誉教授になられました。

 2009(平成21)年度より社会科学部は、「社会科学の学際的・国際的・臨床的な研究・教育」を基本理念として、多領域の知を結集して問題解決する能力と社会を切り拓く社会構想力を身につけた人材を育成することを目的として、カリキュラム改革の実施と合わせて昼間部へ移行いたしました。

早稲田キャンパス14号館から見た11号館手前の桜の景色

立教大学 🌌鼓動する、自由の学府

 日本聖公会の初代主教となるチャニング・ムーア・ウィリアムズは、米国聖公会からの日本ミッションを受けたジョン・リギンズに次いで、プロテスタントではわが国に着任した2人目の宣教師として、1859(安政6)年に禁教下にあった長崎に米国軍艦ジャーマン=タウン号から降り立ち、伝道に努める傍ら、訪ねてくる若い武士たち(副島種臣、前島密、大隈重信や高杉晋作など)に英語等を教えました。
  ※聖公会とは、他の国々ではAnglican Church(英国系)あるいはEpiscopal
  Church(スコットランドおよび米国系)と呼ばれている、英国国教会の流
  れを汲む教会。

池袋キャンパスの正門と本館(モリス館)*東京都選定歴史的建造物

 明治の時代に入ってからも、太政官(新政府)は諜者をはなち宣教師の言動を探らせましたが、ウィリアムズの伝道を「其志金石ノ如シ」と感嘆しています。ウィリアムズは、ただひたすら主の御教えに従ってその一生を捧げ、「道を伝えて己を伝えず」(信徒のことば)姿勢に貫かれていました。

 1873(明治6)年にわが国は欧米諸国の主張を受け入れ、太政官布告第六十八号によってキリスト教禁止の高札を廃し、キリスト教を「黙許」します(鈴木範久『日本キリスト教史』教文館100頁)。
 当時の日本は、職業教育など実学中心のエリート教育が重視されていましたが、英語で聖書を学ぶことを中心に、普遍的な価値観としてのキリスト教と英学に代表される実際的な知識の両方を学べる立教学校は、日本における近代教育の一方のさきがけとなりました。

 立教大学の源流は、アメリカ聖公会から派遣された宣教師Channing Moore Williamsが東京開市場(築地居留地)において、1874(明治7)年に開校した聖書と英学を教える私塾であり、のちにその校名は立教学校 St. Paul’s Schoolと命名されました。

 西欧の伝統的リベラルアーツカレッジをモデルにした立教の建学の精神は、「キリスト教に基づく教育」です。

  立教大学では、建学の精神である「Pro Deo et Patria(神と国のために)」にもとづき、「普遍的なる真理を探究し」(Pro Deo)、「私たちの世界、社会、隣人のために」(Pro Patria)働くことのできる「専門性に立つ教養人」を育成します。そのために、「知識」「技能」「態度」「体験」に関する教育目的に沿った「専門教育科目」と「全学共通科目」からなる正課教育課程ならびに正課外教育を展開します。

池袋キャンパス、本館(モリス館)の廊下*東京都選定歴史的建造物

 立教大学の使命は、単に競争社会で自らの能力を誇るような人間ではなく、人間の一生において欠くことのできない大切なものとは何かを探求し、すべての生命が尊ばれる社会の実現のために奉仕する人を育てること。それは「道を伝えて己を伝えず」と評された創立者ウィリアムズの謙虚でひたむきな生涯を模範とした教育理念、キリスト教に基づいた人間観の具現化といえます。

 1899(明治32)年8月3日に発令された文部省訓令十二号(一般ノ教育ヲシテ宗教外ニ特立セシムルノ件)では、立教中學校は他のプロテスタント学校とは異なる対応をとり、カトリックの暁星学園とおなじように布教と教育を分離し、学校は極力宗教に中立な立場をとることでこの難局をしのごうとしました。すなわち、文部省の認可を維持したうえで、逆にキリスト教教育は過去10年来よりも多く実施したのです。その後、文部省は訓令を修正し、ミッションスクールへの特典をあらためて付与するようになりました。(立教学院史資料センター編『立教大学の歴史』65頁。川村信三 他『ミッションスクールになぜ美人が多いのか』(朝日新聞出版)200頁。)

築地から1918(大正7)年に移転した池袋キャンパスの本館は、東京都選定歴史的建造物です。

立教大学 経済学部単位修得科目

 1874(明治7)年に開校した立教学校は、専門学校令により1907(明治40)年にキリスト教学校では最初に大学昇格を認可されたため「立教大学」と改称し、本科として文科と商科および予科を設置しました。

 1921(大正10)年の『受験と学生』という雑誌には、「商科の方面では近頃立教大学の卒業生が非常に待遇されます。この学校の特色は英語です。銀行会社の外国課または外国商館に行きます」としるされています(『日本就職史』)。

 立教大学は、1922(大正11)年5月に大学令により大学に認可された(キリスト教系の大学としては、同志社大学に次いで2校目)際に、商科は商学部となりました。のちに商学部は、商学科と経済学科の2専攻科体制となり、1931(昭和6)年には経済学部に改組しました。

 立教大学は1949(昭和24)年に新制大学に移行し、経済学部は経済学科と経営学科の2学科体制をとります。経済学部は、現代の経済社会の基本的な仕組みとその歴史的な歩みについて科学的に研究し、また企業や経営に関する理論ならびに基本的知識を十分に習得できるように、経済学科と経営学科とを併置して体系的な学科過程を配している(経済学部履修要項「はしがき」2001年度)。

 経済学部の教育目的は、幅広い視野と柔軟な頭脳をもって、変動する経済社会に対応できる、自立的な思考能力をもった人材を社会に送り出すことです。

 2006(平成18)年からは、経済学科・経済政策学科・会計ファイナンス学科の3学科となり、経営学科は国際経営学科を併置し経営学部に改組されました。

 2000(平成12)年に、経済学部経済学科3年次に編入学し(現在経済学部は、編入学試験を実施していません)、学部教育の要であるゼミナールは、野呂昭朗教授が担当されていた現代地方財政の研究を履修しました。
 野呂先生は、立教大学大学院経済学研究科では、藤田武夫教授の門下でした。

本館は、米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリスから寄付を得ているため、モリス館とも呼ばれています

立教大学 文学部単位修得科目

 立教大学文学部は、専門学校令により1907(明治40)年に商科とともに設立された文科を、その本源とします。
 1922(大正11)年に、立教大学が大学令により正規の大学に認可された際に、商科は商学部に改組され、文科は文学部として宗教学科、哲学科、英文学科の3専攻科によって構成され、のちに史学科が加わりました。

 1949(昭和24)年に新制大学として認可された立教大学は、学部や予科を再編し、文学部、経済学部、理学部の3学部体制をとりました。そのうち文学部は、基督教学科、英米文学科、社会科(1955年に社会学科に名称変更)、史学科、心理教育学科の5学科で発足しました。
 1963(昭和38)年には文学部にドイツ文学科、フランス文学科の2学科が設置されたことで、キリスト教学科、英米文学科、史学科、心理学科、教育学科、日本文学科と併せて8学科体制を布きました。

 文学部は、1969(昭和44)年以来現代社会における人間学の再創造を理念とし、かつ、これを仮説的課題としながら、様々な科目が展開される、リベラルアーツを重視した「自由の学府」に相応しいカリキュラムを編成しています。

池袋キャンパスで最も規模の大きいマキム門です

 わたしが文学部に入学した理由は後知恵ではありますが、「人間が考え、行い、書き残してきたすべてのことに敬意を払い、その意味を問いつつ伝えていこうとする文学部の営み」(中務哲郎『饗宴のはじまり』岩波書店、2003年、246頁)に惹かれたからです。

 1981(昭和56)年にキリスト教学科を卒業しましたが、文学部は2006(平成18)年に、キリスト教学科、文学科(英米文学専修、ドイツ文学専修、フランス文学専修、日本文学専修、文芸・思想専修)、史学科(世界史学専修、日本史学専修、超域文化学専修)、教育学科(教育学専攻、初等教育専攻)の4学科・8専修・2専攻に改組されました(心理学科は、現代心理学部として独立)。

 文学部の教育目的は、世界の多様な文学・言語・文化・歴史・思想・教育に関するテキストや事象に触れることを通じて、幅広い人文的教養と深い人間理解に裏打ちされ、主体的な批評精神をもって社会に貢献できる人間を育てることです。

 キリスト教学科は、世界の歴史や文化に大きな影響を2000年にわたって与え続けてきた「キリスト教」をさまざまな角度から解明することを、その主題としています
 「演習」では、速水敏彦教授のキリスト教学演習(新約聖書学)と、八代崇教授のキリスト教学演習(キリスト教史)を、併せて履修しました。卒業論文の指導教授も、速水敏彦教授につとめていただき、論文題目は「遠藤周作『沈黙』における「水」の位置」でした。

1918(大正7)年に完成した、第一食堂です。ラテン語の石文 「APPETITVS RATIONI OBEDIANT」は、「食欲(本来は欲望)は、理性に従うべし」という哲学者キケロの言葉です

慶應義塾、一橋、早稲田、立教大学での恩師

片山 善博 教授〈慶應義塾大学大学院 法学研究科、早稲田大学 公共経営大学院、大正大学 社会共生学部〉【地方自治,地方財政】

 慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻に在学時の、指導教授です。
 入学した2013年度に、先生が担当された「政治・社会論特殊研究」自治体経営論-自治体のガバナンス研究を受講したところ、学生がわずか2名というなんとも贅沢な授業でした。
 2016年度に慶應義塾の文学部に入学する際、慶應義塾内での二重学籍は認められないため、法学研究科をやむなく自主退学いたしましたが、公共政策専修コースの要件を満たしていたため「修了証(公共政策)」を授与されました。

慶應義塾大学三田キャンパス「大学院校舎」(設計、槇文彦)の教室

高橋 滋 教授一橋大学大学院 法学研究科、法政大学 法学部〉【行政法,環境法,科学技術安全法】

 一橋大学国際・公共政策大学院に在学中、大学院法学研究科の授業行政法演習(担当・高橋教授、山田洋教授、薄井一成准教授)への参加をお認めいただき、そのご縁で研究論文の主査をつとめていただきました。先生の御指導の賜物で、なんとか修了することができました。
 先生は、わたしが入学した2011(平成23)年度には、国際・公共政策大学院院長をつとめていらっしゃった、その当時の写真です。先生は、一橋大学大学院で市原昌三郎教授、南博方教授の門下でした。
 『判例ナビゲーション行政法』(日本評論社)は、高橋先生と石井昇教授〈甲南大学〉とが共編者です。

菊池 馨実 教授〈早稲田大学 法学学術院〉【社会保障法】

 早稲田大学大学院法学研究科民事法学専攻に在学時の、指導教授です。その際の研究課題は、社会保障・社会福祉の法と政策でした。
 菊池先生は2020年まで、早稲田大学大学院法学研究科長を務めていらっしゃり、早稲田大学での長期在外研究では、UCLA(University of California, Los Angeles)School of LawのJoel F. Handler教授のもとで客員研究員をつとめました。
 『社会保障法』第7版(有斐閣、2019年)の著者のひとりが菊池先生で、写真は、「早稲田大学GUIDE BOOK 2012」のものです。

後藤 光男 教授〈早稲田大学 社会科学総合学術院〉【憲法,行政法,現代人権論】

 早稲田大学社会科学部では、後藤先生の講義を、行政法(総論),(行政争訟法),学際研究入門(国際社会)の3科目にわたって受講しました。
 大学院社会科学研究科では指導教授をつとめていただき、現代人権論研究演習を履修しました。
 なお先生は、同志社大学法学部において、田畑忍教授のもとで憲法学を攻究し、早稲田大学大学院法学研究科では、有倉遼吉教授の門下にて憲法学と行政法学を修められました。
 『憲法』(ナツメ社)は、一般市民向けの憲法学習書です。

大久保 皓生 教授〈中央学院大学〉第10代学長【地方自治,行政学】

 早稲田大学大学院政治学研究科を修了した大久保皓生教授が担当されていた、早稲田大学社会科学部のゼミナールⅠ・Ⅱ・Ⅲ(地方自治と行政)を履修しました。
 本田弘、下條美智彦編著『地方分権下の地方自治』(「都道府県行政」を大久保先生が担当、公人社)は、ゼミナールⅡ・Ⅲの参考書でした。
 写真は、先生が学長をつとめていた際の「中央学院大学GUIDE BOOK 2006」です。先生は、おなじ町田市民なので、今でもよくお会いし、お茶をご一緒させていただいております。

山口 義行 教授〈立教大学 経済学部〉【金融論】

 山口先生は、『聞かせる技術』(河出書房新社)という著作があるぐらいですから、経済学部で担当されていた金融論を、学生に聴かせる講義にするべく意を用いていたのが、受講した際、特に印象に残っています。
 また先生は、アカデミズムに捕らわれることなく幅広く活躍されていらっしゃり、『中小企業サポートネットワーク「スモールサン」』の主宰をつとめています。
 『誰のための金融再生か』(ちくま新書)は、副題が「不良債権処理の非常識」であり、中小企業・中小金融を基点とした改革を提唱しています。

八代 崇 教授〈立教大学 文学部〉【キリスト教史】

  八代先生は、立教学院院長や立教大学の母体ともいえる日本聖公会の首座主教をつとめられましたが、わたしにとっては、キリスト教学演習の先生です。
 先生は、何度も手術を受けられましたが、1991(平成3)年での快気祝いの際には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい」(新約聖書、テサロニケ前書5:16‐18)を引いて謝意とされていました。その後惜しくも、1997(平成9)年に御逝去されました。『世界史とキリスト教』(聖公会出版)は、先生の最初の著作です。
 御父上の八代 斌助師もまた、日本聖公会の首座主教をつとめられています。

らん丈が生まれ、育ち、学んだ、『町田市』関連

町田市議会

第16期町田市議会改革調査特別委員長(2020-2021年)

 町田市をどうしたら、もっと住みやすい、安全な、快適な、素敵な、心地好い、居場所にすることができるのか。それを議論し、追求する場であり、機関であり、らん丈もその参加者の一員である、町田市議会です。
 第16期町田市議会改革調査特別委員会委員長を、つとめていました。

議会運営委員長(2018-2020年)

デジタルラボラトリー

 落語家は700人ほどいますが、その中で現役の消防団員はらん丈ぐらいのものではないでしょうか。同じ町田市消防団第一分団の仲間のウェブサイトです。

NPO法人 顧問建築家機構

 町田市は多摩地区随一のNPO設置数を誇りますが、中でも有意義な活動をしているこちらのNPOには、らん丈も原町田地域市民講座でお世話になりました。

老舗ひじかた園

 町田でもっとも落ち着けるお茶屋さんです。お茶屋さんと言っても、イメージが湧かない方は、原町田にあるこのお店をお訪ねください。
 落ち着けるうえに、すばらしいお茶に巡り合えますよ。御店主の土方さんと。

航旅莉屋

 ちょっと読みにくい店名ですが、レストランです。お店は、オープン時中町にあったのですが、現在は、市役所をあがった森野にあります。
 お味はぼくが保証します。奥様と町田四小50周年記念祝賀会でお知り合いになった、そのご縁です。

落語・寄席

三遊亭円丈 師は2021(令和3)年11月30日に、76歳にして心不全のため逝去いたしました。
 師恩たるや深甚にして、計り知れないものがあります。師匠、本当にありがとうございました。

2015年元旦
お歳暮に伺った師匠の旧宅にて(2014/12/26)
円丈一門(左から、彩大、らん丈、師匠、天どん、丈助)、浅草演芸ホールの楽屋にて(2018/5/21)
告別式の斎場にて、師匠の御棺と遺影「強情灸」の高座写真、御棺の上に置かれた風呂敷包みの中には師匠の高座着がはいっています(2021/12/4)
告別式前に、師匠ゆかりの写真とともに

 わが師匠、三遊亭円丈です。
 落語家になってよかったと思う、その最大の理由は、文字どおりの師匠をもつことができたことです。まして、わたしには過ぎた、このような類い稀なる師匠をもつことができたのですから。
 もしも、当時落語界に師匠円丈なかりせば、ぼくは落語家にはなっていなかったのではないか、とも思うのです。

師匠林家三平さんと、浅草演芸ホールの打ち上げ(2018/5/29)

三遊亭白鳥 師

 圓丈一門の弟弟子です。なかでも、白鳥さんはすぐ下の弟弟子ですから、まさしく同じ釜の飯を食った仲です。

(一社)落語協会

 落語協会の会員である、らん丈の身分はなんと真打なのです。
 落語家は、見習い、前座、二ツ目、真打の4段階を一段ずつ上がってゆくのですが、その最上位の“真打”に昇進したのは、1996(平成8)年です。
 真打がどれほど稀少な存在であるかは、会長の三遊亭圓歌師匠(当時:現会長・柳亭市馬師匠)から始まって、前座に至るまで総勢224名の落語家中、真打はそのうちたったの158人、7割しかいないことからも明らかでしょう。
  初席の浅草演芸ホールの入口にて、黒紋付を着ております。紋は、三遊亭圓生一門の定紋、三つ組み合わせ橘です。

両国寄席

番組表、一日の2番目に名前があります
両国寄席の楽屋にて

 五代目円楽一門会が、毎月1日から15日までお江戸両国亭で開催している寄席です。わたしは、落語協会に属していますが、円楽師匠とはおなじ、六代目三遊亭圓生一門なので、出演させていただいております。

らん丈の恩人・知人・友人

小倉まさのぶ 衆議院議員・自由民主党:東京都第23区(町田市)選出

小倉將信(初代こども家庭庁担当大臣)と、ふるさと町田寄席にて

 小倉まさのぶ代議士は自民党の公募に応募し、そのうえで公認を得て、2012年12月の総選挙で初当選を果たした衆議院議員です。
 代議士の前職は日本銀行員で、在職時オックスフォード大学大学院で、金融経済学修士を取得した金融のエクスパートです。
 初代こども家庭庁担当大臣であり、総務大臣政務官をつとめました。

「ふるさと町田寄席」にご来場くださった、小倉まさのぶ代議士です。後ろ幕の比翼紋は、六代目三遊亭圓生一門の三つ組み合わせ橘。

吉原 修 前東京都議会議員・自由民主党:町田市選出

 面倒見のよい都議会議員です。弟が2001年に亡くなった際には、真っ先に駆けつけてくださいました。
 吉原都議は、自由民主党町田総支部の支部長をつとめているうえに、町田市体育協会の会長でもあります。

わたしが部長をつとめた、町田市消防団第1分団第3部の新年会に吉原都議が、お越しくださいました

早坂 義弘 東京都議会議員・自由民主党:杉並区選出

 立教大学の同窓にして、同じ弁論部に属していた仲間でもあります。

田中さとし 前東京都墨田区議会議員

 立教大学の同窓にして、平成15年に初当選を果たした、好漢です。

らん丈関連

公益財団法人プラン・インターナショナル・ジャパン

 鶴見和雄事務局長(当時)は、立教大学の先輩であり、その関係で、NGO特集の拙寄席「どうしまショウ」にゲスト出演してくださいました。
 世界的なNGOなので、御存じの方も多いでしょうが、今後益々重要性が増すばかりです。