町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

高島俊男『天下之記者』「奇人」山田一郎とその時代(文春新書)らん読日記

2008.05.11(日)

 アジア太平洋戦争以前、東京の私立大学について、こんな見立てがあったそうです。いわく、「三田の理財、早稲田の政治、駿河台の法学、白山の哲学」

 三田とはいうまでもなく慶應義塾大学の謂いであり、理財とは現在の経済学部を指します。早稲田については、あらためていうまでもないでしょう。駿河台とは当時そこにキャンパスがあった、現在の中央大学を指し、白山とは今もキャンパスがある、私立「哲学館」として創設された東洋大学のことです。

 山田一郎とはだれなのか知らぬまま、高島俊男の著書なので面白いだろうと目星をつけて、本書を手にとったところ、上記「早稲田の政治」をかたちづくった一人に、山田一郎がいたことを知ることとなりました。

 その山田一郎とは、晩年はどこの新聞社にも属さないで、全国20余りの新聞に記事を書き送っていた新聞記者でしたが、当時そんな人はほかにいなかったのだそうです。

 なによりも特筆されるのは、山田一郎が、明治15年に東京大学の文学部を卒業していたことです。
 当時の東京大学は、日本唯一の大学だったのですから、今の東大だって大変なものですが、今とは比べ物にならないくらい、値打ちが違う。その東京大学を、山田は明治15年に卒業した、というところがミソです。

 つまり、その前年にはいわゆる「明治14年の政変」があり、大隈重信とその一派が政府から逐われています。一派のひとりに、小野梓がいました。小野は、大隈の懐刀であり、小野の思想に共鳴した高田早苗、市島謙吉、岡山兼吉、山田一郎ら、東大の同級生は、鴎渡会を結成し、立憲改進党に参加します。

 改進党は、その人材養成機関として、明治15年に東京の偏僻、早稲田の地に東京専門学校をつくり、それが現在の早稲田大学へと発展したのです。

 早稲田大学では、創設者の大隈重信と小野梓は二祖として本尊に見立てられ、別格に扱われております。それが証拠に、大隈の名を冠した、大隈講堂があり、朝倉文夫作の大隈重信銅像も有名です。対して、小野梓記念館もあります。そこに「早稲田の四尊」が加わって、その4人は、いまも顕彰されているのです。

 ただ、「早稲田の四尊」とは、高田早苗、市島謙吉、天野為之、坪内逍遥の4人であり、山田一郎はそのなかには入っていません。
 まして山田は、東京専門学校の初代講師9人のうちの一人であり、そこで、政治原論、政体論、政理学、論理学、心理学などを教えている。この政治学を独立の学科として設けたところに東京専門学校の、最も大きな特色があります。

 現在に至るまで、政治学科は、東大をはじめ、実に多くの大学では法学部に設置されているからです。
 早稲田の政治学は英国流ですが、オックスフォードで政治学の教授が置かれたのは1912年、ケンブリッジで1927年ですから、世界的に見てもごく早い時期での設置だったのです。

 山田の著『政治原論』を早大の吉村正(元)教授は、〈また創立当初、政治学を担当した山田一郎先生の政治学は、まさに政治学を国法学や国家学から分離して一個の独立学として構築しようとするものでありました。
 その著『政治原論』は明治17年に刊行されているが、ずっとおくれて明治36年に公刊された帝大の小野塚喜平次博士の著『政治学大綱』より、はるかに理論的に明快に政治学を独立せしめており、その体系も、今日の政治学のそれと根本において異ならないほど進んだものであった。この書こそ、近代日本において政治学を現代的意味において独立せしめることに理論上成功した、最初の著作といわれるべきものであろう。〉と絶賛しています。

 『政治原論』では、こんな記述があるそうです。「政治はどこに生ずるか。人間の社会にして上下の関係ある所に生ずる」。あるいは、「余ハ曰ク政治ノ要ハ保護ニアリト」。

 これを、先ほどの吉村教授は、「当時は政治をもっぱら治者側からみたのに対し、それが行われる客観的理由を求めて、政治の概念を打ち出そうとしたことは、たしかに見逃しえない卓見といわなければならない。」と記します。

 また「政党論」においては、「政党とは議会において多数を制せんとするものであること、および国民の意志にもとづいて政権の平和裡の更迭を図るものたることを述べるにある。」とあります。

 かほどの政治学の講義を行っていた山田ですが、明治18年の、キャンパス移転問題、法学部問題の渦中、友人から落伍するように、以後その死までの20年間を自暴自棄ともいえる人生を送ることになるのです。

 そして、その理由が、高島もついに特定できないところに、山田の謎があります。

 その山田ですが、明治23年の第1回衆議院議員選挙に立候補したところ、96票にて落選の憂き目をみることになります。

 その後の、山田はまさしく落魄の身となり放浪するのですが、高島の書を読む限りでは、山田がその境遇を嘆いているようには見えないところが面白い。
 東大時代の友は皆、出世していくのにもかかわらず。

 最後に、いくつか疑問に思ったことを記します。
 先ず、本書24頁に、「早稲田三尊」という記述がありますが、ぼくが知る限り、「早稲田の四尊」とはいうものの、「早稲田三尊」とは、きいたことがありません。

 もうひとつ、268頁にある、「第一回衆議院選立候補とりやめ」というタイトルは、おかしいですね。事実は、本書で後に触れられるように、山田は第1回衆議院選挙に立候補しているのですから。

 最後に、本書を読んで永年の謎が解けたことを報告します。
 東京に、正則高等学校と正則学園高等学校がありますが、この「正則」とは、「英語を原語のままに音読し、少しも訳読しない」のであって、その反対に、「変則」があり、This is a dog.を、はじめから「これは一匹の犬なり」と、日本語で解釈するということを知るところとなりました。