町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

慶應義塾大学 文学部専門教育科目「西洋史特殊Ⅰ」-古代オリエント史-大学での活動

2020.05.22(金)

慶應通信の教材は非売品ですが『古代オリエントの歴史』という書名で慶應義塾大学出版会から刊行されています

【箇所】慶應義塾大学 文学部専門教育科目≪通信授業≫
【科目】「西洋史特殊Ⅰ」-古代オリエント史-[2単位]
【著者】小川 英雄(慶應義塾大学 名誉教授)
【問題】アレクサンドロスの東征によって生まれた諸国家において、(以下、略)。

【章立て】

1アレクサンドロスが東征によってめざしていたもの
1-1、アレクサンドロスの生い立ち
1-2、カイロネイアの戦いから地中海沿岸の征服に至る起動力
1-3、グラニコスの会戦-東方遠征の大義名分
1-4、ギリシア人に対する不信感

2、アケメネス朝の滅亡-ペルシァ王の後継者としての振る舞い

3、インドへの道-征服が未知の世界へと拡大

4、アレクサンダー帝国の性格-ギリシァ人とペルシァ人の人種的融合を企図

5、アレクサンドロスの人間像-偉業を生み出す原動力

6、アレクサンダー帝国の解体とその後のマケドニア

7、セレウコス朝

8、プトレマイオス朝

9、後継者戦争

10、大王の遺産

11、アレクサンドロスの東征における古代西アジア的な要素とギリシア的な要素

1、アレクサンドロスが東征によってめざしていたもの

1-1、アレクサンドロスの生い立ち
 アレクサンドロス(アレクサンダー)は、「20歳でマケドニアの王位に就くと、ギリシァの叙事詩に出てくるような英雄になって、自分の一族の神話的な祖先やアキレスと並ぶような事業を成し遂げたいと思った」[1]。「彼はギリシァ世界の支配者としてふさわしい人物であることを、武勇においても、教養においても人々に次第に印象づけた」[2]ものの、そ「の性格はロマンティックであったが、体質はむしろひ弱く、それに反比例して空想が果てしなく広がる傾向があった。そのことは酒の飲み過ぎとも関係している。これは母親オリュンピアスから受け継いだディオニュソス的傾向である。父からは組織力や軍事的才能を、師アリストテレスからは均衡の取れた広い知識を学びとった。また、彼は率直で開放的な性格をもっていたが、堅実で入念な思考力ももっていた」[3]

 「少年時代のアレクサンドロスについては、現存する大王伝の中でプルタルコスだけが詳しく伝えている」[4]。それによれば、「少年の時から克己節制の徳にひときわ優れ、名誉を重んじる気持ちのおかげで、彼の精神は年に似合わず重厚で気位の高いものとなった」[5]

1-2、カイロネイアの戦いから地中海沿岸の征服に至る起動力
 「カイロネイアの戦いで反マケドニアのギリシァ人の抵抗を粉砕したフィリッポス父子は、新しいコリント同盟(前338年結成)の会議によってギリシァに対する支配権を認められ、また、ペルシァに対する報復の宣戦決議を獲得した」[6]

 「この新コリント同盟の決議を大義名分として、前334年春に3万2000の歩兵部隊と5000の騎兵を率いてダーダネルズ海峡を渡ったアレクサンダーの狙いは、(中略)小さなものではなかった」[7]。その動機を、「大王伝を著したアリアノスは、「川向こうの地に到達したいという願望が彼を捉らえた(ママ)」と述べている」[8]

 「ドイツの学者エーレンベルクは一九三七年の論文で、ここにアレクサンドロスの内面の核心があると説いた。(中略)それは手の届かないもの、未知のもの、はるか遠くにあって未だ達成されざるものへの憧憬である。世界の果てを追い求める抑えがたい願望、これこそが彼を内面から突き動かし、世界制覇へと駆り立てた起動力なのである、と。しかし別の学者は、(中略)この言葉にそうした特別な意味はないと反論する。(中略)とはいえここには、アレクサンドロスという巨人の心中を一瞬なりとも垣間見せてくれる魅力があることも否定できない」[9]

 「前三三三年春、(副将)パルメニオンの部隊がゴルディオンで合流し、遠征二年目が始まる」[10]。「フリュギアを征服した時に、「ゴルディオンの結び目」を一刀両断したという伝承は、アレクサンダーの世界支配への野心を暗示するものである」[11]

 「アナトリアの征服を完了し、(中略)イッソスでペルシァ軍を再度破った。その後、ペルシァ王は和議を申し出たが、これを三度拒否し、ペルシァ帝国全体の征服を目標とすることをはっきりさせた」[12]

1-3、グラニコスの会戦-東方遠征の大義名分
 アレクサンドロスにとって、「東方遠征の大義名分は二つあった。一つは、約一五〇年前のペルシア戦争で、ペルシア人がギリシア人の国土を蹂躙し神々を汚したことに対して報復すること、もう一つは小アジアのギリシア人をペルシアの支配から解放することである。アレクサンドロスは自分の遠征があくまでもギリシア人のためであることを、言葉と行動でもって繰り返しアピールした。(改行)まずグラニコスの会戦で勝利すると、ペルシア軍から奪った戦利品のうち三〇〇領の武具をアテネに送り、アクロポリスのアテナ女神に捧げた」[13]

 アレクサンドロスは、ペルシァの地中海への出口であったシリア・パレスティナとそこで活動していたフェニキア艦隊を亡ぼすために海岸線を南下した。フェニキアの海港に代わる新しい貿易港としてアレクサンドリアを設置し、「土着の神アンモンの神託を聞くためにリビア奥地のオアシスを訪れたが、その際「神の子」としてアジアの王となることを約束された」[14]

1-4、ギリシア人に対する不信感
 「遠征中のアレクサンドロスとギリシア人の関係を具体的に見ると、そこにはギリシア人に対する彼の不信感というべきものが浮かんでくる。ギリシア文化にどれほど愛着を抱いても、戦争や現実政治の次元では、彼は必ずしもギリシア人を信用できなかった」[15]

2、アケメネス朝の滅亡-ペルシァ王の後継者としての振る舞い
 「アレクサンダーはバビロンに着くと、すたれていたバビロニア帝国の首都を復興したが、そのことは彼がオリエントの帝国の統治権をペルシァ王から奪取つもりでいたことを示している。(中略)彼はペルシァ王の後継者として振る舞い、ペルシァ人にも恩恵を施し(中略)たが、マケドニアの部将たちはペルシァ人を被征服民としかみなかったので、そのことには不満をもった。アレクサンダーには、仲間や同族にさえも理解しがたい個性があった」[16]

3、インドへの道-征服が未知の世界へと拡大
 アレクサンドロスは、「アケメネス朝帝国の東の国境線を突破し、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに入った。たぶん、彼はディオニュソス神がかつて行ったと信じられた道をたどって、知られる限りの世界の果てやそこにある外海の岸辺にまで到達しようと思った。彼がいつから、なぜペルシァ帝国よりももっと広い世界の征服を思いついたのかは明らかでない。とにかく、征服はまったく未知の世界へと拡大され、地理的な探険に変わった」[17]

 「アレクサンダーはさらにガンジス川が注ぎこんでいるとされた外洋にまで行こうとしたが、兵士たちはそれ以上ついて行くのを拒否した。そこでインダス川を下って帰ることにし、軍勢を三つに分けた」[18]

 「アレクサンダー自身はゲドロシアの荒れ野を通って、非常な労苦ののち、前324年に8年ぶりにスサに帰った。彼は翌年6月、熱病のためにバビロンで32歳で死んだ」[19]

4、アレクサンダー帝国の性格-ギリシァ人とペルシァ人の人種的融合を企図  
 「大王自身、法的には三つの資格によって権力を行使していった。第一に、マケドニア人にとって彼は伝統的な国家元首であり、彼を選んだ軍隊の指令官であった。(中略)新しいコリント同盟の指揮者であった。(中略)絶対権限をもつ支配者としてペルシァ王の後継者であった。(中略)(その際、)早くからオリエント人たちを敵としてではなく、自分の臣下として扱いはじめた。(中略)とりわけ、ギリシァ人とペルシァ人の人種的融合は彼の独創的な企てであった」[20]

 「彼の精神はマケドニアの軍人やギリシァの都市国家の市民には理解されなかったが、オリエント土着人の間では、ギリシァ語を共通言語(コイネ)とする新たな知的活動が興起された」[21]

5、アレクサンドロスの人間像-偉業を生み出す原動力

 「アレクサンドロスが自らの出生をゼウスに結びつけ、それゆえ自分が伝説の英雄たちと同じ血を引くと信じていたことは、さまざまな逸話から明らかである。今日から見れば荒唐無稽でしかないが、英雄とは神と人間の間に生まれた者をいい、それゆえ当時の人々にとって人間と英雄の世界は互いにつながっていた。アレクサンドロスの家系は、父方ではヘラクレスに、母方ではアキレウスにつながる。こうした英雄たちに憧れ、彼らを模倣し、さらには乗り越えようとする意志が、大王の一見突出した行為の動機をなした」[22]

 「東方遠征中のアレクサンドロスは、英雄や神に対する模倣と対抗意識に貫かれ、それを凌駕しようとの意志に突き動かされていた。(中略)アレクサンドロスが英雄たちと張り合い、それを凌駕しようとしたのも、まさしく不滅の名声を残すためである。それゆえ彼は常に勝利者であり、不敗でなければならない」[23]

 「しかも勝利は一度ならず、常に手に入れねばならない。それだけが彼の卓越性を証明してくれる。(中略)人の世をはるかに超える高みを目指して無限の前進を続ける。こうした英雄的心性こそが、彼の功業を生み出す原動力なのだった」[24]

6、アレクサンダー帝国の解体とその後のマケドニア
 「アレクサンダー大王は後継者を定めずに死んだ」[25]。その後、数十年にわたってマケドニア人の間で権力争いが繰り広げられ、その間に、アレクサンドロスの統治理念は、完全に忘れ去られることとなった。そのため、大王の残した帝国は維持されることはなかった。

 こうして、アレクサンドロスの帝国は、マケドニアのアンティゴノス王朝、アジアのセレウコス朝、プトレマイオス王朝の三つに分かたれた。
 「王たちは君主政とギリシァの政治思想との融合を理想としたように思われるが」[26]、その後も、ギリシァの諸都市とも絶え間のない抗争を繰り返し、「マケドニア王はこれらの紛争を解決することができなかった」[27]

7、セレウコス朝
 セレウコス朝の国家は多様性に富んでおり、統治の唯一の方法は、「ペルシァ帝国を模倣し、宮廷中心の王政を布くことであった」[28]が、オリエントへの軍事的侵入者であるということで、独特の都市建設活動をおこなった。「シリア北部だけで一〇、小アジア西部で七つの都市を建設し、大勢のギリシア人・マケドニア人を入植させた」[29]。「その主たる目的は、(中略)東西交易の結節点を開発しようとしたためであ」[30]った。「こうしてセレウコス朝の二代の王は、大王の政策を発展させ、短命に終わった各地のアレクサンドリアに代わり、真に実体ある都市をアジアに植えつけたのである」[31]

 「その結果として、人種や文化の融合が促進された。これはアレクサンダー大王が意図したものであった」[32]。その結果、「シリアでは都市文化のおかげでローマによる併合後もギリシァ文化が維持され、キリスト教ばかりでなく後世の文化全般に大きな影響を与えた」[33]

 セレウコス王国は、「アカイメネス朝の統治組織を生かし、都市を機軸とした支配体制を作り上げた」[34]ことからも、「アレクサンドロス帝国よりもむしろアカイメネス帝国の後継者と言ってよい」[35]

8、プトレマイオス朝
 「プトレマイオス1世ソテルの後継者たちは、約1世紀の間に、エジプトを富においても、組織においても、当時の第一流の国家にまで高め、地中海世界にその地位を確立した」[36]。その後、長期間にわたる衰退期を経て、最後に、女王クレオパトラが現れて、ローマの力を借りてオリエント全体に支配力を広げようと図ったが、シーザーの養子オクタウィアヌスによって「亡ぼされ、エジプトはローマ皇帝の直接統治を受けることになった」[37]

 プトレマイオス朝の国制をみると、「ナイル川の流域では、マケドニア人の征服者たちはファラオ時代以来の古くからの伝統的農村を獲得し、そこから豊かな利益を獲得した。(中略)エジプトの田園地帯は停滞した社会であり、マケドニア人やギリシァ人だけがあらゆる方面で受益者であった」[38]

 「プトレマイオス朝とセレウコス朝の支配を比較すると、たしかに相似した点もある。例えば、行政面、経済面におけるギリシァ語の使用、屯田制度、体育館(ギュムナシオン)の建設などによるギリシァ文化の普及、とりわけ野心的な土着民上層部の地方社会における地位の向上(裁判官や地方の共同体の世話人)などである」[39]

9、後継者戦争
 アレクサンドロスの「後継者戦争に関する通説は、ペルディッカスとアンティゴノスが大王の帝国全体の維持を追及したのに対し、他の後継将軍たちはお互いが対等な立場で各領域を支配することを認めた、というものだ。しかしこのような単純な二項対立の捉らえ方(ママ)では、後継者戦争の根本的な性格を見落とすことになる。彼らの支配領域はつねに流動的であり、守勢に回れば本拠地を確保することさえおぼつかない。何度も和約を結んだが、それはあくまでも現状の追認に過ぎず、だれもが勢力拡大の機会を虎視眈々とうかがっていた。(中略)息つく間もない戦争と動乱、これこそ半世紀に及ぶ後継者戦争の実態であり、ヘレニズム時代全体を貫く特徴でもある」[40]

 この「極度に流動的で不安定な後継者戦争の時代、(中略)ある王国は短命に終わり、ある王国は二世紀、三世紀にわたって存続することができた。では何が王国の運命を分けたのか。答えは王位継承の成否である」[41]

 この王位に関して、「アレクサンドロスの遺産の中で、後世に最も確実な影響を与えたのは、彼が君主崇拝の先鞭をつけたことであ」[42]り、「大王の死後、ギリシア人は君主崇拝を積極的に推し進めるようになる」[43]

10、大王の遺産
 「アレクサンドロスは後世に何を残したか。(中略)目に見える形で残るものはごくわずか、いやほとんど無に等しいと言ってもよい」[44]。「にもかかわらず、アレクサンドロスが偉大な王として仰ぎ見られるのは、ひとえに後継将軍たちのおかげである。(改行)大王の突然の死によってアジアの真っ只中に取り残された時、側近たちはマケドニア王権の継続を宣言する一方、自身が生き残るためには、アレクサンドロスの威信を頼りとするほかなかった。彼らは大王の遺体の埋葬、東方辺境への遠征、大王を描いた貨幣の発行といった形で、アレクサンドロスとのつながりを最大限に確保した。次いで自身の王国を建設し始めた時、彼らのモデルはやはり大王の政策であった。(中略)こうして大王の企ては、ヘレニズム諸王国において初めて十全に実現した」[45]

11、アレクサンドロスの東征における古代西アジア的な要素とギリシア的な要素
 「かつては、大王の遠征がアジアを一変させたかのように語られた。ペルシア帝国が滅び、大量のギリシア人が移住してヘレニズム文化が生まれたという叙述からは、一気に別世界が開けたような印象を受けた。しかし近年の研究は、そのような断絶よりも、むしろ連続性を強調している[46]」。

  大王による「東方遠征は、それまで緩やかに進行していたギリシア人のアジア進出を加速し、ギリシア風の生活と文化の到達範囲を一気に拡大した。(中略)大王の遠征は、ギリシア人の世界をかつてなく広げ、次代における社会と文化の新たな発展の土壌を作り上げた」[47]

 「東方遠征の先々においては、言うまでもなく、アジア人の人口がギリシア人・マケドニア人よりも圧倒的に多い。多様な異民族とどう折り合いをつければよいのか。(中略)遠征軍の将兵の発想は、ごく単純である。征服者たる自分たちだけが帝国の支配者となり、征服されたペルシア人らアジアの諸民族はおとなしく服従すればいい、こう考えた。(中略)これに対してアレクサンドロスは、旧ペルシア人貴族を高位に登用し、(中略)アジアの諸民族を何らかの形で統治体制に取り込もうとした。東方協調路線と呼んだのがこれである」[48]

 「しかし、彼の政策はあくまでも端緒的なものにすぎず、制度上の完成には程遠かった。ペルシア人総督の大粛清で彼の路線は後退を余儀なくされたし、アジア人の軍隊編入は兵力の不足に対応した政策にすぎない。(中略)アレクサンドロスの民族融合策なるものも虚構である[49]」。

 「要するに大王の異民族政策は、(中略)良く言えば柔軟、悪く言えばその場しのぎである。彼の前には、アカイメネス朝における諸民族のゆるやかな共存があった。彼の後には、ローマ帝国が積極的に市民権を拡大し、ローマ法という普遍的な法体系のもとに、全市民の統合をなし遂げた。彼の治世はその中間で、試行錯誤の段階にあったと見ることができる。あえて試行錯誤というのは、彼の政策に、空前の帝国にふさわしい何か実体のある理念が見出せないからだ」[50]

【参考文献】

森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話(興亡の世界史第01巻)』(講談社、2007年)

[1] 小川英雄『西洋史特殊Ⅰ』-古代オリエント史-(慶應義塾大学通信教育部、2011年)115頁。

[2] 小川・前掲書(注(1))116頁。

[3] 小川・前掲書(注(1))115-116頁。

[4] 森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話(興亡の世界史第01巻)』(講談社、2007年)82頁。

[5] 森谷・前掲書(注(4))82頁。

[6] 小川・前掲書(注(1))117頁。

[7] 小川・前掲書(注(1))117頁。

[8] 森谷・前掲書(注(4))97頁。

[9] 森谷・前掲書(注(4))98頁。

[10] 森谷・前掲書(注(4))118頁。

[11] 小川・前掲書(注(1))117-118頁。

[12] 小川・前掲書(注(1))118頁。

[13] 森谷・前掲書(注(4))125頁。

[14] 小川・前掲書(注(1))118頁。

[15] 森谷・前掲書(注(4))136-137頁。

[16] 小川・前掲書(注(1))118頁。

[17] 小川・前掲書(注(1))119頁。

[18] 小川・前掲書(注(1))119頁。

[19] 小川・前掲書(注(1))119頁。

[20] 小川・前掲書(注(1))120頁。

[21] 小川・前掲書(注(1))121頁。

[22] 森谷・前掲書(注(4))256頁。

[23] 森谷・前掲書(注(4))263頁。

[24] 森谷・前掲書(注(4))263-264頁。

[25] 小川・前掲書(注(1))122頁。

[26] 小川・前掲書(注(1))125頁。

[27] 小川・前掲書(注(1))125頁。

[28] 小川・前掲書(注(1))127頁。

[29] 森谷・前掲書(注(4))288頁。

[30] 小川・前掲書(注(1))127頁。

[31] 森谷・前掲書(注(4))288頁。

[32] 小川・前掲書(注(1))130頁。

[33] 小川・前掲書(注(1))130頁。

[34] 森谷・前掲書(注(4))288-289頁。

[35] 森谷・前掲書(注(4))289頁。

[36] 小川・前掲書(注(1))135頁。

[37] 小川・前掲書(注(1))136頁。

[38] 小川・前掲書(注(1))136頁。

[39] 小川・前掲書(注(1))137頁。

[40] 森谷・前掲書(注(4))291頁。

[41] 森谷・前掲書(注(4))296頁。

[42] 森谷・前掲書(注(4))298頁。

[43] 森谷・前掲書(注(4))303頁。

[44] 森谷・前掲書(注(4))310頁。

[45] 森谷・前掲書(注(4))311-312頁。

[46] 森谷・前掲書(注(4))334頁。

[47] 森谷・前掲書(注(4))335頁。

[48] 森谷・前掲書(注(4))336-337頁。

[49] 森谷・前掲書(注(4))337頁。

[50] 森谷・前掲書(注(4))338頁。