町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

慶應義塾大学 文学部専門教育科目「宗教学」大学での活動

2017.02.09(木)

箇所:慶應義塾大学 文学部専門教育科目【面接授業】
開講学期:2016年度 夜間スクーリング
科目名:「宗教学」[2単位]
担当者:正木 晃 講師
レポート課題:21世紀後半の時点において、世界と日本の宗教事情は、どのように展開しているか。世界と日本のそれぞれについて、自分の見解を述べてください。
指定分量:2,500-3,000字程度

 21世紀後半の時点において、世界と日本の宗教事情は、どのように展開しているか、との課題をいただきましたが、まず、世界の宗教事情から私見を記し、その後、日本の宗教事情へと論を移してまいります。

1、21世紀後半の世界の宗教事情
 先夜、たまたまNHKテレビで、12組のアーティストが華麗なるステージを繰り広げる、インドネシアのバリ島で行われたアジア太平洋地域の歌の祭典、「ABUソングフェスティバル」を見た。このABUとは、Asia-Pacific Broadcasting Unionを指しており、クアラルンプールに本部がある。

 その番組で繰り広げられた、12組のアーティストによるステージを見て、アジアは音楽に限っても、ヨーロッパにくらべるとはるかに多様性に富んでいると再認識させられた。同じアジアとして一括化が出来るのかとさえ危ぶまれるほどに、ヴァライアティに富んでいた。

 その番組ではステージ場面以外に、会場となったバリ島での人々の暮らしぶりが紹介されていた。それを見て、今なおバリ島の人々は宗教に深く根差した生活を送っていることを知った。そこでは、バリ・ヒンドゥーと呼ばれる、バリ土着の信仰とインド仏教やヒンドゥー教が習合した信仰体系が、広く深くバリの人々の精神に組み込まれていることが理解できた。

 そこで、設問への回答であるが、たとえば、日本とバリ島における、宗教との関係ひとつ取ってみても、あまりにも異なる世界にある。それにもかかわらず、広く世界の宗教事情を概括的に捉えることが設問なので、それへの回答は次のようになるのではないか。

 私が考える21世紀後半の世界の宗教事情は、ジョン・ヒックが指摘しているように、「宗教的多元論」(Religious Pluralism)、つまり、世界中のどの宗教であろうと、同じように真理に至る道としての価値と意義を同等に認めるようになるものと考える。

 さらに、従来の宗教の周縁にある、スピリチュアルなものも宗教に包含されるようになるのではないだろうか。つまり、既成宗教とスピリチュアルなものとの融合、溶解が進むものと考える。それは、既成の宗教に飽き足りないがゆえに、それとは異なる宗教的なものに興味を抱く者が増えると、考えるからである。

 その上で、既成宗教を考えると、キリスト教徒について、佐藤研(立教大学名誉)教授が次のように指摘していることに注意を惹かれた。「先進国におけるキリスト教徒の大多数は、今述べたラディカルな部分に刺激されて果敢な自己変革に取り組んでいるわけではほとんどない。その中のとりわけ保守的な部分には、全体状況への不安ゆえであろうか、逆にこれまで以上に伝統主義に回帰固執する傾向が見て取れる」 。

 たしかに、私の周りのキリスト教徒をみても、特にカトリックの場合は、この指摘が当たっているように思われる。

 これは、世界の3大宗教全般に該当するのか、それともキリスト教のみに見られる現象なのかはわからないが、キリスト教の場合は、上記の指摘のとおりであろうかと思われる。

 したがって、このように宗教が「伝統主義に回帰固執する傾向」に飽き足りない少数の者は、既存の宗教から離れ、先程述べたようにスピリチュアルや、あるいはラディカルな新宗教、先鋭的な他宗教へと改宗するであろうが、それ以外の大部分の者にとって、宗教は「伝統主義に回帰固執」するようになり、それがもっと進めば、宗教はファッションのようなものになるのかもしれない。つまり、宗教と習俗との混交である。

 また、グローバル化がますます進捗することによって、諸宗教間の対話と交流が促進されるものと考える。

2、21世紀後半の日本の宗教事情
 20世紀の初頭とはいわない、中頃でもいい。その世紀が終わろうとする1990年代に、オウム真理教という一宗教団体によってあのような一連の事件が発生すると、いったいだれが想定できただろうか。宗教の専門家ならば、あるいは予測できたのかもしれないが、多くの一般大衆は、だれもそんなことは夢想だにしていなかったのである。

 それとともに、スタジオジブリによって製作された映画が、20世紀から今世紀にかけて、熱狂的に迎え入れられることとなったが、あのような宗教性に富んだ映画がわが国で製作され、かつ、圧倒的に受容されることになることも、当然ながら20世紀半ばにおいても、だれ一人として、予想することはできなかったのである。

 また、2009年の正月三箇日の全国における神社仏閣への参詣者は9,939万人(警察庁調べ)に達し、これを延べ人数としてとらえれば、国民の4分の3以上は初詣に行ったことになる。これだけを見れば、あたかも日本人の大多数は、神道の熱心な信徒であるかのように思われる。ところが、初詣という伝統は、エリック・ホブズボウムがいうところの「創られた伝統」として、明治になってから創出されたものであり、初詣は、とても宗教的見地から参っているとは言い難いところがある。初詣の多くの参拝客は、習慣として神社に詣でているのではないだろうか。

 今世紀の後半の宗教事情の展開を考えるうえで、これからの日本は、世界のトップをきってますます高齢化が進展していく事実に、小稿では注目したい。

 戦後のわが国は、ひとが死ににくい社会を実現した。逆に言えば、容易に長生きが出来てしまう社会をつくりだしたのである。ところが、死ななくとも、ひとは高齢になれば、おのずから死に近づくこととなり、死が様々な局面で、より身近なものになってくる。すると必然的に、「考える葦」としてのひとのうち、少なからざる人々は自らの死への思索をつうじて、宗教へと思いを馳せるようになるのではないだろうか。

 つまり、ひとは死んだらどうなるのかと考える、そのひとの数と死へと思いを馳せる時間が、これからの日本人に増えこそすれ、決して減らないのである。そのことによって、そこから宗教に目を向けるひとが増えると考えるのは、さほど不自然なことではないだろう。また、長寿命化に伴い、ひとに与えられる時間が伸びることで、考える時間も増えるのである。それを要因としても、死や宗教に関心を寄せるかたが、少なからず増えることが予測できるのである。

 この傾向は、20世紀後半から徐々に進行した中間団体への帰属意識の衰退にともなう、中間団体の溶解とも関係する。宗教団体も、中間団体の一つと考えられるが、初詣への参拝客が増えていることの裏には、組織力が衰えている宗教団体が増えている実態があるのではないのか。つまり、本来であれば、なんらかの宗教団体に帰属しているひとは、その施設へ初詣に行ったり、それに類する行事に参加するはずであったものが、それらに行かないために、初詣に行く日本人が増えているのではないだろうか。

 このように、21世紀後半の日本の宗教事情を考えると、宗教に関心を寄せる者は増えるものの、それは、宗教組織への加入という手段はとらず、ただ、習俗としての宗教に近づいていく者が増えると、考えられる。

 それをキリスト教に限ってみると、『キリスト教年鑑』によると、今世紀においてラテン・アメリカ、アジア、アフリカではキリスト教徒が、大幅に増加するようであるが、そのアジアの中に、日本は入っていないだろうということである。単語数3,001字)

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