町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

慶應義塾大学大学院 法学研究科 政治学専攻「憲法特殊講義」Ⅰ大学での活動

2013.07.20(土)

箇所:慶應義塾大学大学院 法学研究科 政治学専攻
開講学期[単位数]:2013年度 春学期[2単位]
科目:「憲法特殊講義」Ⅰなぜ憲法改正か 国家戦略を定めるために
担当:中野 邦観(読売新聞政治部 元デスク・尚美学園大学 元教授)
リポート題目:担当講師の著作「軍国主義と平和主義」を読んで
指定字数:6,000-7,000字
※脚注はすべて省略いたしました

問題意識
 「軍国主義」も「平和主義」も、どちらも人口に膾炙したことばではあるが、本講義はあらためていうまでもなく「憲法特殊講義」と題されたものであるため、当リポートの第1章においては、日本国憲法(以下、「憲法」という。)では、軍国主義と平和主義をそれぞれ、どのようにとらえているのかをあきらかにし、そのうえで第2章において、わが国が置かれている現状を防衛白書によって概観する。そののちに、今後も日本が引き続き平和であり続けるためには、憲法はどのようにあるべきなのかを考えることが、当リポートの目的とするところである。

第1章 憲法では「軍国主義」と「平和主義」をどのように考えているのか
1、軍国主義
 憲法前文において、わが国は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」ているため、当然のことながら憲法に軍国主義を肯定する要素を見出すことはできない。また、軍国主義に親和的な要素をも見出すことはできない。

 じじつ、憲法を論じる際に、こんにち最も頻繁に参照される芦部信喜教授の『憲法』では、憲法前文にかんして、次のように記されている。「日本国憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三つを基本原理とする。これらの原理がとりわけ明確に宣言されているのが憲法前文である」 。

 それについて樋口陽一教授は、憲法を大日本帝国憲法と比較したうえで、次のように指摘する。「大日本帝国憲法下で天皇の名のもとに「皇軍」によってひきおこされた「戦争の惨禍」が「再び」「起ることのないやうに……決意」(前文)してつくられた日本国憲法は、そのような近代憲法史の系譜をひきつぎながら、それを徹底させたところに特色をもつ」 とし、憲法は軍国主義とは隔絶したものであるとしている。

 本講座成立に与っている小林節教授が、園田康博と著した『全訂 憲法』(以下、「小林本」という。)に当たると、次のような説明がなされている。前文、9条、98条2項にみる、「平和主義・国際協調主義」は、「比較憲法上の常識」であり、「諸国の憲法に共通」するものであるとし 、憲法にみる平和主義を当然視しており、軍国主義を肯定する記述を憲法に見出すことはできない。

2、平和主義
2-1、芦部信喜教授
 芦部教授は、平和主義にかんして次にみるような指摘をおこなっている。「日本国憲法は、第二次世界大戦の悲惨な体験を踏まえ、戦争についての深い反省に基づいて、平和主義を基本原理として採用し、戦争と戦力の放棄を宣言した」 。このように、憲法は、「平和主義を基本原理として採用し」ているとする。

 それでは、憲法における平和主義の起源は、どこにあるのだろうか。芦部教授は、次にしるすように、日米の合作としている。「日本国憲法の平和主義の規定は、日本国民の平和への希求と幣原首相の平和主義思想を前提としたうえで、最終的には、マッカーサーの決断によってつくられたと解される。日米の合作とも言われるのは、その趣旨である」 との記述がその根拠である。

2-2、樋口陽一教授
 樋口教授は、憲法の平和主義原理を「市民革命以来の実定憲法史を見ても、日本国憲法の背景には、平和主義条項の系譜がある」 とみる。

 そのうえで樋口教授は、平和主義の系譜を踏まえて「日本国憲法の平和主義条項からは、「軍国日本」に対する徹底した反省と、くわえて、人類史にとってのあるべきすがたの先どりという、客観的意味を読みとるべきである」 とする。

2-3、阪本昌成教授
 これにたいして、阪本昌成教授は、憲法を論じる際に、芦部教授をはじめ多くの学者が採用する「平和主義条項」なる用語法は避ける必要がある、と指摘する。その論拠として、憲法でそれをあつかう9条は「安全保障」に関する規定であって、「主義・思想」に関する定めではないからであるとしている。それにたいして、先に記した芦部教授は『憲法』において、第4章で「平和主義の原理」として「憲法九条成立の経緯」によって、その稿が起こされていることから、憲法9条を「平和主義の原理」と考えていると理解される。

 しかし阪本教授は、憲法9条を、「諸外国の憲法と比較対照したとき、日本国憲法9条は、戦力不保持と交戦権の否認をうたっている点で特異である」 とし、「現実の国際政治が、非武装中立を許すほど甘くないことは、今では誰もが了解していることだろう。私のような醒めた人間は、9条が日本国憲法の輝きではないこと、戦勝国が敗戦国に対して課したペナルティだということを、知っている。“平和”というタームから非武装中立を連想することのイマジネーションの貧困さを知っている」 とする。

 9条が戦勝国による敗戦国へのペナルティとする阪本教授の説にかんして、樋口教授は、「旧敵国による懲罰的武装解除の「おしつけ」という側面、他方では天皇と皇室制度の安泰をはかるための「避雷針」としてのうけ入れという側面がある」 と指摘している。

 「避雷針」にかんしては、芦部教授も、幣原喜重郎首相がマッカーサー元帥を訪問した際に、戦争放棄をいう考えを示唆したと伝えられているが、「幣原は、それが天皇制を護持するために必要不可欠だと考えた」 ためのものであると、指摘する。

 「以上の経緯からみると、現行憲法の平和主義は、もっぱら外圧によって形成されたようにみえる。しかし、マッカーサー・ノートの作成に当たって、当時の幣原喜重郎首相の軍備撤廃の考えが影響をもったとされ、また何よりも悲惨な戦争を経験して、アジア太平洋戦争の敗戦後に主権者となった日本に住む人々が切実に平和を希求していたことが重要である」 との渋谷秀樹教授による指摘もある。

2-4、小林節教授
 このような対照をみせている「平和主義」であるが、「小林本」に当たると、次のような説明がなされている。まず、9条にかんしては、「国防」という章がもうけられている。同章では、「政治的議論(好悪の表明)と法的論議(条文の解釈)は異なる。」 とことわったうえで、「平和主義・国際協調主義(前文、9条、98条2項):比較憲法上の常識:諸国の憲法に共通」とする説明をくわえている。このことにより、小林教授も、9条にかんしては、「平和主義」とする説明をおこなっていることがわかる。

 そののち、9条の「基本構造」に論をすすめ、1項は、「「戦争」的なるもの一切を放棄(ただし、国際紛争を解決する手段としては、」という条件付)」していると説明し、2項では、「戦争の「手段」一切を放棄(ただし、「前項の目的を達するため、」という条件付)」との説明をおこなっている。

 そのうえで、小林教授は、自衛戦争・自衛戦力合憲説をとなえ、1項は「侵略」戦争のみを放棄しており、2項は前項の目的に従って「侵略」用戦力のみを放棄している。つまり、「自衛」戦争と「自衛」用戦力は合憲としている 。

 これにたいして、阪本教授は、「9条2項冒頭にいう「前項の目的を達するため」を論拠として、“自衛戦争は禁じられていない”と論ずることは強引だった」 と指摘する。そして、護憲派の9条理解を、「素直だった」 とする。

2-5、小林教授の「平和主義」と「軍国主義」
 小林教授は、「いわゆる「平和主義」と「軍国主義」:単なるレッテル貼り:全ての論者が「平和」を求めており、人により、その手段が異なるだけである」 との説明をくわえており、「平和主義」にしろ「軍国主義」にしろ、「単なるレッテル貼り」をして、それらを区別することに意味を見出してはいない。

 そのうえで、小林教授は、「いつか来た道」論を展開することは、「体制の変更を無視している」と指摘し、「現憲法下において、軍隊の統帥権は独立しておらず、自衛隊は民主的統制に服している」として、「いつか来た道」論を一蹴している。

2-6、9条解釈の通説
 憲法9条の解釈のまえに、自衛権は認められているという前提は、ゆるがないことをまず指摘する。なぜならば、「自衛権は、独立国家であれば当然有する権利である」 からである。

 そのうえで憲法9条の解釈にあたると、その1項には、「国際紛争を解決する手段としては」という留保が付されていることに気づく。従来の国際法上の通常の用語例によると、「国際紛争を解決する手段としての戦争」とは、具体的には侵略戦争を意味する。このような国際法上の用例を尊重するならば、9条1項で放棄されているのは、侵略戦争であって、自衛戦争は放棄されていないと解されることになる(限定放棄説)。これに対して、従来の国際法上の解釈にとらわれずに、およそ戦争はすべて国際紛争を解決する手段としてなされるのであるから、1項において自衛戦争も含めてすべての戦争が放棄されていると解すべきであると説く見解(全面放棄説)もある。

 限定放棄説をとっても、2項について、「前項の目的を達するため」に言う「前項の目的」とは、戦争を放棄するに至った動機を一般的に指すにとどまる、つまり恒久平和の念願(前文2項=平和主義・非暴力主義への希求)と解し、2項では、一切の戦力の保持が禁止され、交戦権も否認されていると解釈すれば、自衛のための戦争を行うことはできず、結局すべての戦争が禁止されていることになる(遂行不能説)ので、全面放棄説と結論は異ならなくなる。

 これが、通説であり、従来、政府もほぼこの立場をとってきた。

 ただし、9条1項は侵略戦争のみを放棄しているとして、前述の限定放棄説の解釈をとる一方で、2項については、「前項の目的を達するため」とは「侵略戦争放棄という目的を達するため」ということであり、したがって、2項は、侵略戦争のための戦力を保持しないとの意であり、また交戦権の否認は交戦国がもつ諸権利は認めないとの意を述べるにとどまると解する説もある(侵略戦争・侵略戦力放棄説、自衛戦力許容説)。侵略戦争・侵略戦力放棄説は、「前項の目的を達するため」の意味を「国際紛争を解決する」目的(1項)と解し、自衛目的の戦力は保持できると解する。

2-6-1、自衛戦争合憲説の問題点
 しかし、この説には次のような問題点があることが、芦部教授によって指摘されている。
1、憲法には、66条2項の文民条項以外には、戦争ないし軍隊を予定した規定がまったく存在しないこと、
2、憲法前文は、日本の安全保障の基本的なあり方として、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するという、具体的には国際連合による安全保障方式を想定していたこと、
3、仮に侵略戦争のみが放棄され、自衛戦争は放棄されていないとすれば、それは、前文に宣言されている格調高い平和主義の精神に適合しなくなること、
4、自衛のための戦力と侵略のための戦力とを区別することは、実際に不可能に近いこと、したがって、自衛戦争が放棄されず、自衛のための戦力が合憲だとすれば、結局、戦力一般を認めることになり、2項の規定が無意味になりはしないかという疑問が生ずること、
5、自衛戦争を認めているとするならば、なぜ「交戦権」を放棄したのかを合理的に説明できないのではないか、という疑問が出されている。

第2章 平成25年度版(2013年度版)防衛白書
 第1章において、わが国の平和主義について、おもに憲法前文と9条から考察をくわえたが、本章では、わが国のこんにちの防衛にかんして、防衛白書で指摘されている問題を紹介したい。

 さる7月9日の閣議において、小野寺五典防衛大臣が報告した平成25年度版の防衛白書では、昨年9月の尖閣諸島国有化以降の中国の行動をふまえ、初めて「不測の事態」への懸念を示しており、中国が領有権を主張し、日本領海への侵入を繰り返している動きを「極めて遺憾だ」と厳しく批判している。

 白書は中国公船による領海侵入の現状を詳細に記述し、昨年9月から今年4月までで計41回にも上ることを指摘。今年1月に中国海軍艦艇が海上自衛隊の護衛艦に火器管制レーダーを照射した問題も取りあげ、「不測の事態を招きかねない危険な行動」と強く批判した。そのうえで「国際的な規範の共有・順守が求められる」として、中国側に自制を促した。 中国側がレーダー照射の事実を否定していることに対しては「中国国防部、外交部は事実に反する説明を行っている」と批判した。

 これにたいして、中国外務省は、7月10日の定例会見で、海洋進出を進める中国への警戒感を強く打ち出した日本の防衛白書について、「基本的な事実を無視し、悪意をもって中国の脅威をあおっている」として「強烈な不満」を示した。

第3章 今後も日本が引き続き平和のうちにその市民が生活できるようにするためには、憲法はどのようにあるべきなのか
1、憲法は現今のわが国の状況をふまえるとどのようにあるべきなのか
1-1、自衛隊の合憲性
 憲法9条があるわが国には、自衛隊が現実に存在している。自衛隊の合憲性につき、どのように考えるべきであろうか。

 「憲法解釈としては、(中略)政府見解のように、戦力とは、すなわち軍事力と解するほかないであろう。なぜなら、軍事力か否かは、設置された実力部隊が、戦争をなすことができるものか否かという客観的側面のみによって判定すべきであって、それがどのような目的で使用されるかという主観的側面は、文言形式上、仮に防衛目的と限定されているとしても、使いようによっては、攻撃目的にもなりえ、憲法9条2項が、「陸海空軍その他の戦力」の保持を禁止した趣旨と矛盾することになるからである。他方、内閣法制局が、精緻な解釈技法を施して、戦力ではない軍事力につき、自衛権行使のための自衛力であるという概念を創作したことは、客観的側面である装備の拡張に一定の歯止めをかけたという実質的な効果があったという現実政治上の意義を否定することもできない。これまで、学説では、違憲説が通説であったが、憲法変遷論によって自衛隊を合憲とする立場、違憲であるが合法であるとする立場なども唱えられた。(中略)現実の国際政治は、この戦争観を支える、担保手段としての国際連合の安全保障理事会とその執行機関である国際連合軍が編制されていない以上、各国が有する自衛権の担保手段はもたざるをえず、現在の自衛隊の存在は、暫定的に、内閣法制局の解釈方法によって肯定せざるをえない」 とする考えが有力である。

2、非武装中立論について
 前節においてあきらかになったように、自衛隊の存在は、憲法解釈のうえからも肯定されうるものである。

 小林教授の指摘によると、国際法上、中立国には重武装の義務があるとのことである 。また、同教授も指摘するように、国際政治において、「いわゆる平和外交だけで成功した先例はな」 いし、小林教授も指摘するように「弱すぎると侵され易い」 ため、非武装中立は選択すべきものではないと、筆者は考える。

結論
 わが国の平和主義を、ただちに撤回し、あらためるべきだという意見は、こんにちのわが国ではほぼ皆無であろう。この平和主義を支えている大きな要素は、憲法9条である。「諸外国の憲法と比較対照したとき、日本国憲法9条は、戦力不保持と交戦権の否認をうたっている点で特異である」 ことはいまさらいうまでもない。

 また、「9条は、憲法を直接有効な法としようとしてきた憲法の歴史を逆行させたようだ」 とする、阪本教授の指摘もある。つまり、9条によって「政治にみられる事実と、憲法の文理との間の溝はあまりにも大きく深くなってしまった。軍事費と称さないで防衛費といい、戦車といわないで特車といっている間に、世界に有数の軍事力を持つに至った日本、これではまるでカリカチュアだ。人びとが憲法のもつはずの重厚さを軽視しているのは、ここに起因している」 というのである。

 防衛白書にもあるように、近年、隣国からの日本領海への侵入もあることから、憲法前文にある「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」のでもあるし、小林教授も指摘するように、「「侵略」用戦力のみを放棄」 すべきであると、筆者は考える。

 ただし、イラク戦争にわが国が加担した際、世界に先駆けて開戦を支持し、その戦争に協力したことの是非が、いまだに検証されていないことが問題であると考える。なぜならば、それは、わが国独自の判断というよりも、米国を支持する姿勢があまりにも露骨に見えたことが問題視されるからである。このままでは、米国財政上の問題から同国の国防費が削減され、その防衛費分を日本に押し付けようとする米国によって、集団的自衛権を日本に認めさせようとした場合、わが国は、独自の判断ができるのであろうか。杞憂におわるのであればよいが、疑問視されるところである。

【参考文献】
芦部信喜『憲法』(岩波書店、2000年)
小林節・園田康博共著『全訂 憲法』(南窓社、2000年)
浦田賢治編『立憲主義・民主主義・平和主義』(三省堂、2001年)
樋口陽一『憲法』〔第3版〕(創文社、2007年)
渋谷秀樹『憲法』(有斐閣、2007年)
阪本昌成『憲法1 国制クラシック』〔全訂第3版〕(有信堂、2011年)