町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

早稲田大学大学院 社会科学研究科「経営科学」Ⅱ課題リポート大学での活動

2007.07.01(日)

箇所:早稲田大学大学院 社会科学研究科 政策科学論専攻
科目:「経営科学」Ⅱ
開講学期[単位数]:2007年度 後期[2単位]
担当:常田 稔 教授(早稲田大学 社会科学総合学術院)
常田教授は、早稲田大学大学院創造理工学研究科では、「効用理論」の担当教員でもあります。
課題:貴女/貴方は、文章を作成する際、どのような方法でデータやアイデアを整理・構造化しているか?
 その方法を具体的に紹介せよ。

1、はじめに
 筆者にとっては、作成する文章によって、その方法は異なるので、それぞれの文章の種類に即した方法を以下に記す。

2、落語の場合
 筆者は落語家でもあるので、落語についての文章を先ず記す。
 落語についての文章とは、この場合、新作落語を指す。古典落語は御存じのように、先人の手によるものなので。

 ただ、筆者の新作落語は、客観的には評価が非常に低いという、筆者には如何ともしがたい欠陥がある。
 つまり、詰まらない。(シャレではありません。念のため)それでも、ごく僅かながらでも受けるネタがあるのもまた事実である。

 では、どんな落語が受けるのかといえば、いうまでもなく面白い落語である。

 ならば、どんな新作落語が面白いのかといえば、つくった際に、瞬時に脳内でストーリーが出来あがったものである。これは確信をもってそういえる。付言すると、この場合、瞬時にできあがるのは、あくまでもストーリーであって、ディテイルは、時間をかけて磨き上げることになる。

 逆に言えば、ストーリー進行に呻吟してつくった落語は、総じてつまらない。理由は、簡単である。面白くないから、ストーリーが動かないのである。

 面白いものであれば、ストーリーは勝手に動いてくれるのである。

 それでは、どのようにしたら、面白い落語を作ることができるのであろうか。
 それは、寝ている時間以外、すなわち、起きている時間中ずっと、アンテナをオンにして、面白い落語を作ることを、脳内のどこかで意識し続ける以外にない。

 すると、あるとき、天啓のごとく、落語のストーリーが舞い降りてくれる。つまり、無から有が生じることになる。落語の神が、微笑んだのである。

 もうひとつ重要なことは、必要に迫られることである。
 なんとなく、いつかは面白い落語を作れればいいな、と考えていたら、その落語家は一生かかっても面白い落語を生み出せないであろう。

 つまり、必要が誕生の秘訣であり、王道である。
 これは、母語以外の言語の習得に似ている。

 たとえば、いつかは英語が話せたらいいな、と思っている限りその人は、一生かかっても英語を物にすることができないことによく似ている。

 ならば、どうしたら瞬時にして、面白い落語のストーリーを構築することができるのであろうか。

 多くの場合、通常ではまったく関係のないものを結びつけることによって、そこから面白いものが出来上がることがある。

 古典落語で『粗忽長屋』という傑作があるが、これができたのは、おそらく明治時代であろうから、どうやって作者がつくったのか、もちろん筆者には与り知らぬことである。
しかし、推測することはできる。おそらく、自分が死んだら、その後、どうなるんだろう、といったことを夢想していたときに浮かんだストーリーではないだろうか。

 でも、死んだらその後のことは当人には分からないもんなぁ。
 いや、待てよ。もしも、自分が死んだその後のことまで分かったら、それはさぞや愉快だろう。
 よし、それを落語にしてやれ、といって作ったのが『粗忽長屋』ではないだろうか。
 以上、あくまでも推測ではあるが。

 この事情は英語のinterestingを見ても、同じ構造であることが推測される。
 つまり英語で、「面白い」を表わす単語にinterestingがあるが、ここで重要なのが、interである。
 「相互」の関係において、従来からの硬直した思考では思いも及ばないことをinterによって結びつけることによって、そこから面白いものが生まれる、ということでinterestingなのであろう。

3、俳句の場合
 筆者は、平成9年からある句会に入会し、それ以来、毎月五句は俳句を作るようにしている。俳句は、いわゆる文章とは言いかねるが、文章に類したものということで、ここで採り上げたい。

 句歴10年を越えたものの、一向に上達する気配すらみられない。それどころか、俳句をつくるうえでの個性など筆者は無いのにもかかわらず、困ったことに筆者らしい俳句ができてしまうことが間々みられるようになった。

 それは、俳句を作る際にいつの間にか、それを作成する独自の構造が筆者にできたせいかと思われる。

 こうなると、俳句をつくるのに困ることはなくなる。いくらでも作ることができる。ただし、そうして出来た俳句は同工異曲である。癖とでもいうのだろうか、ある閾値内に留まり、突き抜けた俳句は、決して作ることは出来ない。巷間使われる言葉でいうところの、小さくまとまってしまった状態に当る。

 そんなときに、吟行といって、作句を目的として、郊外や名勝旧跡にでかけることがある。すると往々にして、以前には到底思いもよらない種類の俳句をつくることができる。

 これはきっと、吟行という他律的な作句環境の変化がもたらした、アイデアの構造的変化の産物なのであろう。

 このように、新たなる環境の設定により、生み出されるものに変化が生じることは、体験として実感できる。つまり、(当然ながら筆者の俳句は芸術以前ではあるものの)芸術作品の創造は、常にマンネリズムとの闘いであることが諒解される。

4、作家の場合(佐伯泰英)
 朝日新聞1月26日朝刊be版「逆風満帆」に、作家の佐伯泰英が採り上げられていた。
 佐伯泰英という作家がいるのは知っていたが、佐伯の著作は、累計1,600万部にも上り、日本人のじつに8人にひとりが読んでいる勘定になることまでは知らなかった。ここに、佐伯がいまや、「新・国民作家」とまでいわれる由縁がある。

 その記事で、佐伯が興味深いコメントを寄せていた。
 佐伯は、ここ4〜5年、小説を毎月一冊は刊行しているそうである。つまり、月産500〜600枚になる。執筆は、下記の通りだという。
 “毎日朝4時に起きると、すぐパソコンに向かう。途中、コーヒーとヨーグルトをとり、再び書き続ける。あらかじめ頭の中にシナリオやコンテが無いときでも、とりあえず何か書いていく。
 「たとえば『梅の枝につぼみが赤く色づいて……』とか、情景を書いていくうちに先が浮かんでくるんです」”
 “あらかじめ頭の中にシナリオやコンテが無いときでも、とりあえず何か書いていく”ところに、プロを見る思いがするが、なるほど、プロとはとりあえずでも何でも、とにかく書く、ということであろう。

 ここに、プロとアマの明瞭な違いがあるように思われる。
 アマは、シナリオやコンテが無いと、書けないのである。
 つまり、道路がないと、アマはクルマを走らせることができない、ともいえるであろう。

 ところがプロは、道があろうがなかろうが、とにかくクルマを前進させる、ということだ。

 こうなると、文章を作成する際、データやアイデアを整理・構造化しているようには、外見上は見えないものの、実は、プロの作家の頭脳では、作者も知らないうちに、文章が作成される。
 つまり、自然裡に文章が整理・構造化されているのではないか。
 逆に言えば、書くことがなかろうとも読者を満足させるものが書けないようでは、プロにはなれない、ということなのだ。

5、ボトルネックに迷い込んだら
 それまですらすらと文章を書けていたのに、あるときから、うんともすんとも一向に先に進まなくなってしまうことがある。そんなときはあきらめて、酒でも飲んで寝てしまうのに限るが、締め切り間近となると、そうもいかない。

 その場合筆者は、風呂に入る、気晴らしに散歩に出る、コーヒーをがぶ飲みする、この順位で解決を図る。

 いずれにしろ、そういう場合は、文章作成に煮詰まってし
まったので、頭を一度リセットすると、再び好いアイデアが浮かび、以後元通りうまくいくようになることが多い。ボトルネックに陥った際には、環境を変えることが重要である。

 これは、おそらく、環境が変わることで、それまで働いていなかった頭脳の部分が働くようになるためではないかと考えられる。

 多くの脳科学者が指摘していることだが、記憶と睡眠には深い関係があるのだそうで、先に進まなくなったら酒でも飲んで寝てしまうのは、案外理に適ったボトルネックからの脱出法なのかもしれない。

6、よくある誤解とプロの目〜虫の目、鳥の目、魚の目
 文章のアマチュアがじつにしばしば抱く誤解に、さすがプロはモノをよく観察している、というものがある。

 つまり、プロは細かい点にも注意を払い、それを文章化しているというのだが、当たり前である。アマチュアと同じであれば、プロとしての差異化が達成できていないのである。

 逆に言えば、プロとは、アマチュアが思いもつかないほど細かい点に気を配りつつ文章を作成するから、それを売って収入を得ることができるのである。

 このように、プロという環境がものをよく観察させるのである。
 したがって、プロといえども、原稿料がない原稿には張り合いをなくすものである。

 逆に、原稿料が高ければ、当然のことながら張り切るであろう。

 アマチュアは、原稿料の多寡で、原稿の出来に変化が来たさないような気がする。

 本題の、文章を作成する際、どのような方法でデータやアイデアを整理・構造化しているのかに戻ると、文章のプロが留意するのは、虫の目、鳥の目、魚の目である。

 「虫の目」とは、至近距離を、複眼をつかって様々な角度から注意深く見る目のこと。「鳥の目」とは、虫では見尽くせない広い範囲を、高いところから俯瞰する目のこと。「魚の目」とは、水の流れや潮の満干を、つまり、世の中の流れを敏感に感じとる目のことである。

 これらの目を獲得する方法は、その3つの目を自覚しながら文章を書く。この練磨を通してのみ獲得できるものと、筆者は確信する。

7、おわりに
 以上、恣意的な文章による、文章を作成する際、どのような方法でデータやアイデアを整理・構造化しているのかという課題への回答であった。

 筆者は、文章を作成する際に、頭の中でおおよその内容を考えてから着手するが、往々にして、書き始めるとそれとは違った内容のものになることが多く、その方が、頭の中で考えていたものよりは、好いものが出来上がることが多い。