町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

慶應義塾大学 文学部専門教育科目「近代日本文学」大学での活動

2019.09.05(木)

箇所:慶應義塾大学 文学部専門教育科目【通信授業】
科目:「近代日本文学」[3単位]
問題:大正・昭和期に主に活躍した作家の中から一人を選び、同時代の社会状況・文芸思潮をまとめたうえで、具体的な作品を挙げてテーマと意義について分析しなさい。

配布テキストとレポートで採り上げた、遠藤周作『海と毒薬』

「近代日本文学」

遠藤周作『海と毒薬』のテーマと意義

章立て

1、同時代の社会状況・文芸思潮

1-1、同時代の社会状況

1-2、同時代の文芸思潮・「第三の新人」登場

2、遠藤周作『海と毒薬』のテーマと意義

2-1、『海と毒薬』の背景

2-2、『海と毒薬』のテーマ

2-3、『海と毒薬』のテーマの次元

2-4、『海と毒薬』の意義

1、同時代の社会状況・文芸思潮

 遠藤周作による『海と毒薬』の初出誌は、「文学界」の昭和32年6、8、10月号であった。その時代にいたる社会状況をみると、以下にしるすようなものであった。

1-1、同時代の社会状況

「昭和26年(1951)、対日講和条約および日米安全保障条約が締結され、日米の結びつきが強まる中で、日本は総体的な安定期に入っていった。戦後も10年を経ると経済の回復が進み、戦後的貧しさや混乱は次第に影をひそめ、安定傾向はより進んだ。(中略)中野好夫「もはや『戦後』ではない」(「文藝春秋」昭和31年2月号)という議論が盛んに行われた」[1]。その後、「五七年に総理大臣に就任した岸信介の政治課題は、アメリカと日本との新時代を確立することであり、米国の軍事力を背景にしつつ、いわゆる傘の内にあって日本経済の拡大・強化を追求することにあった。六〇年五月一九日、〈新安保条約〉が衆議院において強行採決され、岸内閣に対する不信感と反撥心は労働組合のみならず、市民大衆をも巻き込む形で未曽有の抗議行動となって顕現した。三〇万人を超えたといわれる国会周辺デモや大学生と警官隊の正面衝突は、〈戦後一五年〉という節目の最大の歴史的極点であり、政治のみならず、文学やその他の芸術領域をも含め、戦後知識人のある種の踏み絵とも見られる歴史的事件となってゆく」[2]
 その「一九六〇年は、安保の年であると同時に池田内閣が経済成長政策を打ち出した年でもあった」[3]のであり、「岸首相退陣後の池田内閣は所得倍増計画を発表、経済はまた飛躍的にのびて日本は〈豊かさ〉の時代を迎えた」[4]のである。「(昭和)三〇年代は、よかれあしかれ、今日の日本の姿が最も集約的にそこに立ち現われてきた時代だった」[5]という見方も可能であろう。

この事情を栗坪良樹は、磯田光一の言説を通じて、次のようにしるす。

「磯田光一は〈安保〉改定に関して、次のように結論づけている。

 自民党は六〇年安保に表面的に勝つことによって、かえって戦後国家の重要課題を日米同盟に頼るかたちで隠蔽し、国民的合意を求める時期を遅らせてしまったのである。そして逆に革新勢力が意に反して獲得した高度成長が、経済大国の繁栄とともに精神的価値の欠落をもたらしたことは、その後二十年の歴史の示しているとおりである。

 磯田は、ここで岸首相から池田首相へ転換した一九六〇年、〈日本政府〉が〈安保条約の改定〉という衣を脱ぎ替えて〈所得倍増〉を打ち出したことを念頭においているわけだ。磯田が、〈高度成長〉〈経済大国の繁栄〉が、一方で〈精神的価値の欠落〉を招き寄せたとする認識をもつ時、その視野に言論界や文学・芸術界の動向が入っていなかったはずはない」[6]とし、遠藤周作が『海と毒薬』を執筆していた当時は、60年安保前の政治に関心が向けられていた時代ではあったが、その動きに抗うように「第三の新人」が登場してきた。

1-2、同時代の文芸思潮・「第三の新人」登場

 「「第三の新人」という語がジャーナリズムに登録されたのは、山本健吉「第三の新人」(昭和28.1「文学界」)によってであるが、このときの「第三の新人」という呼び方にしても実は編集部が山本健吉に示唆したものであった」[7]という。

 ただ、このときの「第一の新人」が「「第一次戦後派」を意味したのは当然であるとしても、「第二の新人」が何であるかは山本自身も「漠然としている」」[8]のであり、まして、「第三の新人」となると、いよいよ特定が判然としなくなる。

 「しかしこの「第三の新人」という用語が、はじめは以上のように使われたにせよ、のちに意味内容を変えて文学史的な呼称になったことは動かせない事実である。この山本論文の翌年に、当時有力な新進批評家と目された服部達は、「新世代の作家達」(昭和29.1「近代文学」)を書いたが」[9]、そ「の論文題名にある“劣等生”“小不具者”“市民”という規定が、ほぼ「第三の新人」の内容・特質を示すものとして受け入れられたのである」[10]

 十返肇は、「第三の新人」たちを、「彼らは伝統的文学観念への懐疑から出発して、その日常的小市民的私小説的性格を打倒しようとした戦後派にくらべて、再び現代の文学にそうした性格を更生させつつある。したがって彼らの文学は、戦後派とは逆に非思想的であり非政治的であり反批評的であり、また反社会性格を所有している」[11]とし、日常的小市民的私小説的作家と指摘している。

「のちに「第三の新人」作家の一人である遠藤周作は、『海と毒薬』を書き、九州大学の医学部を舞台に起きた米軍捕虜の生体解剖事件に題材をとって、罪の自覚の欠如した日本人の精神構造を究明しようとした。もちろん、それは、カトリック作家としての遠藤周作の「神」なき日本人の精神構造の追求という固有の問題意識にうながされた作品である。同時にまた、それは、戦後派作家が、日本人の戦争体験を文学の場で対象化し、戦争のなかでの人間の奇怪なありかた、そこでの人間性の暗部の露出のしかた、戦争の傷跡が戦後の生をもたらしている影の深さ等々をさまざまの角度から検討していった、そういう先行文学者の仕事の切り拓いた道のうえにはじめて生まれてきたということも、やはりみおとすわけにはいかない」[12]のである。

それについて、大久保房男は、次のように指摘している。「遠藤周作の方もぼくから見ると、純粋の「第三の新人」ではないと思うんです。「第三の新人」の純粋な作家は、安岡章太郎、庄野潤三、吉行淳之介の三人であって、遠藤君や阿川弘之さんは、ちょっと違うんじゃないですか。お二人は、イエス・キリストを書いたり海軍大将を書いています。そういう偉い立派な方を書かないのが「第三の新人」ですよ。吉行淳之介さんもそういうことを言っていた」[13]

このように、遠藤周作を「純粋の「第三の新人」ではない」とする意見があるが、遠藤が『イエスの生涯』を刊行したのが昭和48年であったことを考慮すれば、『海と毒薬』執筆時ではまだ、遠藤を「第三の新人」のひとりとして考えるのが適当であろう。

2、遠藤周作『海と毒薬』のテーマと意義

2-1、『海と毒薬』の背景

 遠藤周作による『海と毒薬』は、昭和20年5月から6月にかけて本土を空襲した際に撃墜され捕虜となったB29の搭乗員を、九州大学医学部の一部において、西部軍監視のもとに軍事医学上の実験材料とした事件に材を取っている。それを、遠藤は次のように述懐する。「私は事件そのものを書く気持は毛頭なかった。私の内部にあるもので事件を変容させ、別の次元の世界に移し変えてみるつもりであった」[14]

2-2、『海と毒薬』のテーマ

 この事件に関与したと設定される医学部研究生の勝呂は、作中しばしば「眼をしばたた」く。その行為は勝呂が、困惑した際におこなわれ、その後彼は「悲しそうな顔」をするのである。そうして、目をしばたたいた後、勝呂は次のように呟く。

「仕方ないからねえ。あの時だってどうにも仕方がなかったのだが、これからだって自信がない。これからもおなじような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまうかもしれない……アレをねえ」[15]。ここでの「アレ」とは、捕虜の人体実験のことを指す(筆者注)。

 捕虜への実験の後、「殺した」という声を耳もとで聞いた勝呂は、「(俺あ、なにもしない)とその声を懸命に消そうとする」[16]ことによって、実験へは参加したもののそこでは直接手を染めていないとの言い訳を考える。

 同じ医学部研究生の戸田は、人体実験の後、呵責を欲する。「胸の烈しい痛みだった。心を引き裂くような後悔の念だった」[17]

 その戸田は、「俺が怖ろしいのはこれではない。自分の殺した人間の一部分を見ても、ほとんどなにも感ぜず、なにも苦しまないこの不気味な心なのだ」[18]との心情を明かす。

 これら勝呂と戸田の心情と行動を通じて、多くの評者が指摘するように、作者は「日本人の罪責意識そのものを根元的に問おうとした」[19]ものと考えることができる[20]

2-3、『海と毒薬』のテーマの次元

 上記テーマに関して、異議を唱える見方がある。それについて上総英郎は、次のようにしるす。「一般には日本人の罪意識の不在を描いたとされているが、私はそうは考えない。戸田は良心の呵責を求めているし、勝呂は医学部の屋上でいつもは心に浮かべる「詩」を唱えることができなくなっている。明らかに変化が起こっているのだ。神を持たない彼らにはそれが意識的にならないだけなのである」[21]

 同様のことを別の視角から、今井真理は次のように指摘する。「勝呂のいう仕方がなく罪を犯してしまう人間の本能、罪意識の不在、そしてその問題に加えて人間の抑えきれない情慾、その両方に視点がすえられていたことに『海と毒薬』の掲げる問題があ」[22]るというのである。くわえて今井は、次のようにしるす。「『海と毒薬』を評するとき、「日本人の罪意識の不在」と言う言葉の響きは、ある意味心地よく都合がいい。彼らは為すすべもなく自らの手で、手術室の扉を押し開けた。それが『海と毒薬』の一断面である」[23]

上総も今井も、『海と毒薬』のテーマが、「罪意識の不在」だけでは充分ではないとするが、筆者は『海と毒薬』のテーマには「罪意識の不在」も包含して、そこにあるものと考える。

2-4、『海と毒薬』の意義

 遠藤が『海と毒薬』を執筆した意義は、あれほどの戦争を経験した日本人が、終戦後10年を経て、それを忘れようとしていることに我慢がならず、米人捕虜に施した事件を扱うことで、日本人は戦争という非常時にこれほど非道なことをしたと、喚起させたかったことにあると考える。その際、日本人は神の存在をどのように考えているのか。神の存在を意識しないから、あのような非道なことができたのではないのかという、遠藤の日本人への疑問が『海と毒薬』を書かせたのではないのか。

 くわえて、遠藤は「『海と毒薬』ノート-日記より」で次のようにしるしている。

「私は罪悪の行われた場所を見るのが好きだ。このような傾向はたしかにリヨンで養われたに違いない。もっとも、それは私が幼い時から持っているある懐古趣味にも原因がある。しかし、善の行われた場所でなく、悪の行われた場所に私が感動するのは、私が人間の悪をドラマの本質とみなしているためだからか」というように、「人間の悪をドラマの本質」とする遠藤にとって、米人捕虜への人体実験は、格好の材料となって小説へと昇華されたものと考えることができる。

【参考文献】

松原新一、磯田光一、秋山駿『戦後日本文学史・年表』現代の文学 別巻(講談社、1978年)

栗坪良樹他『岩波講座 日本文学史』第14巻(岩波書店、1997年)

大久保典夫、高橋春雄、保昌正夫、薬師寺章明編『現代日本文学史』(笠間書院、1998年)

泉秀樹編『遠藤周作の研究』(実業之日本社、昭和54年)

遠藤周作『遠藤周作による遠藤周作』(青銅社、昭和55年)

文藝春秋編『遠藤周作のすべて』(文春文庫、1998年) 今井真理『それでも神はいる』-遠藤周作と悪(慶應義塾大学出版会、2015年) 


[1] 大久保典夫、高橋春雄、保昌正夫、薬師寺章明編『現代日本文学史』金子博「第七章 昭和三〇年代の文学」(笠間書院、1998年)148頁。

[2] 栗坪良樹他『岩波講座 日本文学史』第14巻 栗坪良樹「現代文学史論」26-27頁。

[3] 松原新一、磯田光一、秋山駿『戦後日本文学史・年表』現代の文学 別巻 磯田光一「戦後文学の転換」308頁。

[4] 金子博・前掲書149頁。

[5] 金子博・前掲書149頁。

[6] 栗坪良樹「現代文学史論」33頁。

[7] 磯田光一・前掲書189頁。

[8] 磯田光一・前掲書189頁。

[9] 磯田光一・前掲書189頁。

[10] 磯田光一・前掲書190頁。

[11] 十返肇『文壇風物誌』「『第三の新人』論」(三笠書房、昭和30年)

[12] 松原新一、磯田光一、秋山駿『戦後日本文学史・年表』現代の文学 別巻 松原新一「戦後変革期の文学」81頁。

[13] 大久保房男「新潮」1996年12月号『遠藤周作と第三の新人』安岡章太郎、小島信夫との鼎談

[14] 遠藤周作『遠藤周作による遠藤周作』(青銅社、昭和55年)「私はなぜ小説家になったのか」106頁。

[15] 遠藤周作『海と毒薬』(遠藤周作文学全集第ニ巻、昭和50年)26頁。

[16] 『海と毒薬』131頁。

[17] 『海と毒薬』138頁。

[18] 『海と毒薬』136頁。

[19] 平野謙『海と毒薬』(角川文庫解説)

[20] 武田友寿はこの作品が「日本人の罪意識の不在を糾問し、倫理観の根源の脆弱さを衝いている」と論じ、笠井秋生は「遠藤は『海と毒薬』で、生体解剖事件を利用しながら、キリスト教と相容れない日本人の汎神的感覚について語ったのである。キリスト教と相容れない汎神的感覚を追求するということは、キリスト教になぜ距離感を抱くかという理由を明らかにすることにほかならない」と述べ、「汎神的感覚との戦いを描いた作品である」(『海と毒薬』-日本人的な感覚の追求)と記した。

[21] 上総英郎「遠藤周作の小説について」カトリックとしての活躍『遠藤周作のすべて』(文春文庫、1998年)330頁。

[22] 今井真理『それでも神はいる』-遠藤周作と悪(慶應義塾大学出版会、2015年)80頁。

[23] 今井・前掲書87頁。