町田市議会議員 会派「まちだ新世紀・みんな」/(社)落語協会 真打 三遊亭らん丈
〒194-0013
東京都町田市原町田
4-10-19-101(事務所)
【tel】 042-732-2004
【fax】 042-732-2005
HPからのお問合せ
このレポートは、まちだ史考会における読書会、「この国のかたち」のために作成したレジュメです。
以下に、小単元(本文で1行空いている段落毎に一括りにした単位)の順に、その梗概をまとめ、その後、本欄の主人公、山本権兵衛への注釈を加えます。
1、明治になり、それまで幕府と諸藩が持っていた小規模な艦船を集めて日本海軍が創設されたが、それは、脆弱を極めたものに過ぎなかった。
それでも、技術好きな国民性の故か、明治も20年代に入ると艦艇がいくらか揃い始め、二流ながらも海軍らしい陣容を整えるようになった。
ただ惜しむらくは、海軍当局の人材は玉石混淆のままであったことである。
2、ここに海軍改革者として、山本権兵衛が登場する。
権兵衛は、海軍よりプロシャ(ドイツ)に派遣されたが、大佐になるまで一貫して、海上勤務ですごした。
長の陸軍に対して、薩の海軍という言い方があったが、権兵衛はその薩摩で生まれ育った。しかし、少年時代はとくに秀才だったという評判はなかった。
したがって、権兵衛の透き通った合理主義、容赦なく実行する精神は、後天的に備わったものと考えられる。
3、世界は海洋の時代に入り、地理学的に、朝鮮半島が日本を脅かす存在として意識されるようになった。
そんな事態に至ったとき、政治レベルで、海軍は権兵衛に委ねることが決まる。
4、権兵衛が海軍大臣官房主事になったのは、明治24年のことであるが、その年には、一流の大鑑を擁する清国の北洋艦隊とロシアの艦隊が、日本の貧弱な海軍を見下すように来日し、威容を誇示した。
5、権兵衛が海軍建設に独裁的な辣腕をふるうことができたのは、その後ろ盾として、西郷隆盛の実弟従道が海軍大臣の要職にあったからであるが、それでも、同郷の薩摩人将官8人を退官させ、海軍兵学校の人材を海軍の中心に置くという大鉈を振るった明治26年の人員整理は、従道も度肝を抜かれるほど苛烈を極めたものであった。
下記書によれば、こんな記述がある。
「山本伯は軍務局長をやった大佐の時代から、権兵衛大臣で通ったほど、時の西郷海軍大臣に用いられたものである。あるとき、新橋の花月で陸海軍のえらい連中があつまったが、西郷に『オハンは権兵衛ばかりを用いる』とくってかかった。しかし西郷はとりあわず、『権兵衛とおまえらとは、値うちが違う』と、笑ったという逸話が残っている。
6、その翌年の明治27年、日清戦争が起こる。
日清両国ともにいまだ軍隊近代化の途上にあり、戦力が充実していなかったために双方は早期決戦を求めた。そこにおいて、権兵衛が献策した小口径の速射砲の活用による打撃により、清国艦隊は大敗を喫した。
7、その10年後明治37年に、こんどは日露戦争が起こる。
権兵衛は、もう山本と呼ぶべきだろう。なぜならば、明治31年には権兵衛は、海軍大臣にまで登り詰めたのだから。
山本は、無線電信機を重視した。その結果、日露戦争の海軍の勝利を、通信の勝利という説を採る者がいるほどである。
ロシアは旅順とウラジボストクに二艦隊を持ち、さらにバルチック艦隊まであるのに比して、日本には山本がつくった聯合艦隊一艦隊があるのみ。彼我の戦力差は余りにも大きかった。
そこで、山本は人事に意を用いた。戊辰戦争以来の朋友であり、日高壮之丞を聯合艦隊の司令長官に据えず、鶴舞鎮守府司令長官として定年を待っていた東郷平八郎を司令長官に任じた。
その結果、日本海海戦で海軍は勝利を収め、日露戦争を終結させることができた。
山本は、日露戦争に勝つべく海軍を設計し、充分に用意し、結果その通りとなったものの、その功を誇ることなく、戦後、東郷の功のみを褒め称えた。
山本英輔『山本権兵衛』(時事通信社、1958年)
著者の山本英輔は、権兵衛の甥でもある海軍大将。第19代聯合艦隊司令長官。
著者は権兵衛とは縁戚関係にあるため、本書では、権兵衛の短所にはほとんど触れることがない。たとえば、海軍兵学寮では、権兵衛の卒業席次は17人中16席だったということには同書では、触れていない。
というわけで、本書は、甥による権兵衛礼讃の書である。
1、合理主義者
山本権兵衛は、合理主義者である。
その一例として、明治18年、イギリスで製造した浪速艦を本邦に引取る際に、兵員糧食に特記すべき改良を行っている。
それは、艦船乗員に脚気にかかるものが多かったために、英国海軍にならい、乗員にパン食を励行させたことである。
これは、当時米食が当然のこととされていたことを考えれば、極めて果断な処置である。
2、海軍軍令部の設置
山本は、海軍大臣官房主事であったとき、外国の海軍の例や陸軍にすでに陸軍参謀本部という陸軍大臣からの独立機関があることから、海軍では海軍大臣の下にあった海軍参謀部を、海軍軍令部条例の制定によって改め、海軍参謀機関は、本省と離れて、海軍軍令部という独立した部門へと制度を変更させた。
3、公平無私の人材登用
たとえ同郷出身の先輩で維新当時から勲功を積み将官の地位に在るものでも、あるいは自分と親しく交わっていたものでも、海軍の将来を考えた場合、淘汰する必要があると認めたものは断じて整理し、自分に反対して悪口を放つものであっても、将来国家有用の材であると認めたときは、かえってこれを推薦した。
ぼくにとって、現今の日本で最も面白い対話は、丸谷才一と山崎正和によるものです。
このお二人は、じつに多くの対話を重ねてきましたが、そのお二人による、近代日本語の運命に対する関心を基調とした対話は、意外なことに本書に至るまで、論じられたことがなかったのでした。
文字通り、満を持しての対話であり、まことにもって面白い内容でした。
とくに興味を惹かれたものを以下に箇条書きにしてみます。括弧内は、らん丈。
p.75 山崎正和 『万葉』から現代の若者言葉まで一貫しているのは、実に二音連結の伝統なんです。これは二音ずつがひと固まりになるという性格で、二音を二回繰り返すと四音になります。それに一字足しますと五音になります。二音連結は非常に滑りのいい言葉で、気分がどんどん先へ進むんですね。一音はそれを止める作用がありますので、五音というのはまとまります。
次に二音を三つ繰り返して一音で止めると七になります。つまり五・七調、あるいは引っ繰り返して七・五調。五と七というシラブルが日本語の息づかいの基本になってるんです。
p.76 山崎 具体的に言いますと、「ガラス戸」という言葉がありますね。これを「ガラス・ド」と発音する日本人は、百人に一人もいない。ほとんどの人が「ガラ・スド」と発音しています。
p.94 丸谷才一 江戸時代の言葉づかいが持っていた洒落っ気とか面白さとかを捨てることによって、実利的近代日本はかろうじて成立した、という傾向があるでしょうね。
p.99 山崎 国語学は文法を教える。(中略)日本語学は、現象を忠実に記述し分析する学問ですから、変わったら変わったことが研究のスタートなんですね。
たとえば、「うなぎ文」という言葉があります。これは国語学ではおよそ問題にしません。しかし、日本語学では「俺はうなぎだ」という表現を(食事の注文等で使いますが、それを)「うなぎ文」と称して、一つの表現カテゴリーとして認めるわけです。
p.109 丸谷 明治政府、あるいは近代日本が日本人に対して要求した言語能力というものは、伝達の道具としての言語能力を高めることだったわけです。しかし、思考の道具としての言語能力を高めなければならないとは考えなかった。
p.161 丸谷 一国語の文学史が、これだけ長く途切れなく続いている国(日本)は、ほかにありませんからね。たとえばギリシアなんて国は、専門の学者にとってはともかく、僕たち普通の読者にとっては、古代文学があって、あとは二十世紀文学がある、それだけですからね。
p.169 丸谷 村落的生活においては、意見をはっきり口に出して言うと、あれは喋喋しい人間であるといって嫌われるんです。すると、嫌われないで何か挨拶をするためには、できるだけ無内容なことを言わなきゃならない。
p.171 丸谷 伊藤博文は演説をするときに、まず自分で英語で原稿を書いたんですよ。彼はできるから、バーッと英語で書いて、それを秘書官に渡す。秘書官がそれを日本語の口語文に訳す。それが伊藤博文の議会演説なんですって。つまり、日本語では口語文というものが書けなかったわけ。
p.175 山崎 日本人は他の感性分野、創造力の分野では相当頑張っているが、結局、言葉がないということなんですね。
以上、ごくごく一部を摘記いたしましたが、ご興味をお持ちになられた方は、是非原本をお読みください。
なお、この対話の一部は、「文藝春秋」2002年9月臨時増刊『美しい日本語』に掲載されました。
(更新日:2008.03.30)