町田市議会議員 会派「まちだ新世紀・みんな」/(社)落語協会 真打 三遊亭らん丈
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1、はじめに
「福沢諭吉は、明六社員中、いな、明治以後の思想家の中で、後世に最も大きな影響を与えた思想家であったし、現在も尚、影響を与え続けている思想家である。そのような福沢の多面的な活動を限られた紙幅の中で論ずることは殆ど不可能に近いので、ここでは福沢」とキリスト教、特にプロテスタント、なかんずく英国国教会との係わりを中心に考えてみたい。
2、福沢とキリスト教
松沢弘陽(北海道大学名誉教授)は、「近代日本において、福沢ほど声望の盛衰が大きく、評価が分かれる思想家は少ない」と指摘しており、「日本の近代化に大きな影響を与えた福沢諭吉は、一般には宗教に対する批判者として知られ、内村鑑三は1902年に福沢を次のように「宗教の大敵」と呼んだ。
宗教の大敵とは自身宗教を信ぜざるに之を国家或は社会の用具として利用せんと欲する者である。宗教を侮辱する者にして之に勝る者はない。彼等は宗教は迷信であると言ふて居る、彼等は宗教は有職の徒には全く無用のものであると唱へて居る、然るに彼等は此迷信此無用物を彼等の同胞に推薦しつゝあるのである、彼らの不信実(ママ)も此に至て其極に達せりと云ふべきではない乎。然も斯る人は此日本国には決して少なくはない、故福沢諭吉先生の如きは終生斯る説を唱へられた、爾して彼の門下生は今に猶何の憚る所なく此説を唱て(ママ)居る……。」
これを、藤田友治は「宗教家から見ると福沢は自分自身が信仰していないにもかかわらず効用を認めているのは利用主義と感じるのでしょう」と、指摘する。
このように、「宗教の大敵」といわれていた福沢であるが、実は、プロテスタントのキリスト教、特に英国国教会宣教師たちとは密接な交流を続けていたのであり、それ以外にも、下記にみるようなキリスト教との関わりがあった。したがって、福沢は、キリスト教を批判の対象としてのみ考えていたわけではないのである。
その福沢が宗教をどのように考えていたのかを、最も端的に披瀝したものに下記の文言を挙げることができる。「宗教は文明進歩の度に従て其趣を変ずるものなり」 「したがって、ある宗教について固定した評価を下すのは誤りで、長期的視点で見るべきであると説く。」
つづけて、白井尭子はつぎのよう指摘する。「福沢の思想と行動は、矛盾撞着と見えるような面を多く含みながら変貌しているので、一面をもって「大敵」と呼ぶことは福沢の多面性に対する認識が不十分であったと言えよう。それどころか、福沢は、西洋文明の基盤であるキリスト教の意義を認識し、(略)宣教師の宣教活動を積極的に助け、キリスト教宣教の庇護者と呼ぶことすら可能な局面をその生涯のなかに多くもっていたのである。」
上記の指摘を証左するがごとくに、福沢自身はキリスト教徒にはならなかったものの係累には、キリスト教徒が少なからずいたという事実がある。
それに関しては、「福沢の姉、中上川婉は若き時よりキリスト教徒になり、また末の姉服部鐘も熱心な日本ハリストス正教会の信徒であった。福沢の三女、清岡俊、四女、志立滝も、ショー(後述)が創立した東京の聖アンデレ教会所属の信徒で、志立滝は、東京YWCAの会長を20年の長きにわたり務めている」 との記述がある。
3、福沢とキリスト教との出会い
福沢諭吉がキリスト教と出合ったのは、青年時代のことである。
文久2年(1862年)、福沢が27歳のとき、徳川幕府の遣欧使節であった竹内下野守保徳並びにその使節団一行が、ヨーロッパを視察中にロンドンを訪問したところ、イギリス聖書協会は、一行の一人ひとりに一冊ずつ、新約聖書の英訳聖書を贈ったといわれている。
このとき翻訳方として随行していたのが、福沢諭吉であった。ただし、聖書は、当時の幕府が禁教の対象としていたキリスト教の聖典であったため、一行は驚いて、あわてて聖書をイギリス聖書協会に返却したといわれる。これが、福沢が、キリスト教の(新約)聖書にじかに触れた最初のことであったものと考えられる。
4、「ひゞのをしへ」
明治4年10月、福沢諭吉は、二人の息子一太郎と捨次郎に対して、立ち居振る舞いを教えるために、漢字を極力抑え、殆どひらがなを用いて、福沢自身の手で記した、「ひゞのをしへ 初編」 という教訓書を与えている。
そのなかで福沢は、つぎのように記している。
世の中に父母ほどよきものはなし。父母よりしんせつなるも のはなし。父母のながくいきてじやうぶなるは、子供のねがふ ところなれども、けふはいきて、あすはしぬるもわからず。父 母のいきしにはごつどの心にあり。ごつどは父母をこしらえ、 ごつどは父母をいかし、また父母をしなせることもあるべし。 天地万物なにもかも、ごつどのつくらざるものなし。子供の ときよりごつどのありがたきをしり、ごつどのこころにしたが ふべきものなり。
てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこゝろにした がふべし。たゞしこゝにいふてんとうさまとは、にちりんのこ とにはあらず、西洋のことばにてごつどゝいひ、にほんのこと ばにほんやくすれば、ざうぶつしやといふものなり。
上記「ひゞのをしへ」を考える際にまず注意しなければいけないのは、それは、明治4年に、福沢自身の手によってしたためられたものである、という事実である。それを白井は、つぎのように指摘する。「なぜなら、すでに述べたように明治4年(略)は、明治の新政府がキリスト教を禁教とする政策を依然として維持していた時期であったからである。」
つぎに、「ごつど」という文言を考察すると、「ここに記された「ごつど」とは、造物主であって、キリスト教の人格神とは異なり、むしろその考えは、理神論に近い。福沢は造物者と自然の摂理に対する畏敬の念を子供に教えた。(このことから、後述のように) 福沢は、宗教の完全な否定者ではない」ものと考えられる。
5、「宗教は経世の要具なり」
これは福沢が書いた、『時事新報』(1897年7月24日)の社説の表題である。福沢は、自分は宗教を信じないと言いながらも、多くの宗教論を書き、経世上の点から宗教が持つ功徳を語った。その考えは、1876(明治9)年に「宗教の必用なるを論ず」 を発表して以来最後まで変らず、「政府の強力も法律の威厳も民心を支配するの一点に於ては宗教に及ばざること遠しと云ふべし」と記して、宗教は人びとの道徳の進歩、社会安寧のために極めて重要であるとした」という言説は、福沢の宗教観を考える上では、無視できないものである。
そして晩年に記した『福翁自伝』の最後に、「私の生涯の中に出来して見たいと思ふ所は、全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名に愧しくないやうにする事と、仏法にても耶蘇教にても孰れにても宜しい、之を引き立てゝ多数の民心を和らげるやうにする事と、大に金を投じて有形無形、高尚なる学理を研究させるやうにする事と、凡そ此三ヶ条です」 と書き、宗教の社会的効用に期待したのである。
そんなところから、古賀勝次郎教授は「福沢が自己の思想的立場を明さなかったことと、彼が「形而上」的なものに興味を示さず、専ら実際的なものに関心をもっていたこととは、恐らく密接な関係があったと思う」 との指摘もなされたのであろう。
6、福沢と英国国教会
「福沢は、キリシタン禁制下で拷問を受けたキリスト教徒二川一謄の鉄鎖をはずさせるために一肌脱いで感謝されただけでなく、(略)禁教令撤廃直後に来日した英国国教会SPG 宣教師アレグザンダー・C・ショー、SPG系女性宣教師アリス・ホア、その10年後に来日したSPG宣教師アーサー・ロイドの宣教に対して、さらには米国ユニテリアン宣教師アーサー・M・ナップの宣教に対して、多くの特別の援助を与えたのであるから、キリスト教宣教にとって一面では庇護者ではなかったろうか」 との指摘がある。
特にショーに関して記せば、ショーは、「SPGから日本に最初に派遣された宣教師2人のうちの1人として東京を中心に、長期間福音伝道に力を注いだことと、在日英国公使館付き牧師という重要な公職にあって東京に住む英国人たちの信仰上の指導を行っ」 ていたのである。
福沢研究において、これまで英国国教会宣教師で、しかも在日英国公使館付き牧師であったショーとの関係が重要視されたことはなかったが、ショーは、来日後5ヶ月目には早くも福沢と接し、福沢に慶應義塾内の福沢家の隣に西洋館を建ててもらい、そこに住んで、福沢の子供たちの家庭教師となり、3年後にその西洋館をショーが去った後も福沢との友情を深め、27年間にわたり福沢家の人たちと親密な交際を重ねたことは、福沢がキリスト教に相当程度親炙していた証左となるであろう。
7、「キリスト教排撃」
「福沢のキリスト教に対する反撥、排撃の言葉は、1875(明治8)年頃から現れ始める。」それは、維新前後の国際情勢のなかで福沢が、欧米列強キリスト教国によって、日本が植民地化されるのではないかと危機意識を煽られ、それに対抗する護国の信念が、福沢をキリスト教排撃へと向かわせたのであり、「福沢は必ずしもキリスト教の教義そのものを排撃したのではなかった」 ものと考えられる。
8、「キリスト教容認」
「宗教も亦西洋風に従はざるを得ず」 を、1884(明治17)年に『時事新報』に発表して、福沢は突然、キリスト教排撃から容認へと転じた。
「福沢がこのようにキリスト教排撃から容認へと態度を変えたのは、日本の国益、キリスト教徒の状況、社会的効用、教育効果などを考えてのことであって、回心によるものではない」 のであり、福沢が、「宗教は経世の要具なり」と考えていたからこそ、こうした転回ができたのであろう。
また、この変化を理解するためには、条約改正を希求する日本の外交政策、欧米諸国と宗教を異にするがための不都合、内外のキリスト教各派の動き、そして前年の1883年に米国オハイオ州の、非常に宗教色の強いオベリンカレッジ(Oberlin College)に留学した一太郎、捨次郎からの情報なども無視することはできないものと考えられる。
9、「宗教は茶の如し」
「晩年の福沢は、どちらかと言えば仏教に対する関心を強めてはいる(福沢家の宗旨は真宗であった)が、『時事新報』(1897年9月4日)の社説「宗教は茶の如し」において、宗教は社会の安寧維持のために必要であり、仏教と耶蘇教の相違は、経世上の眼から見れば普通の茶と紅茶の違いぐらいであると述べ、「その味を解せしむるを経世上の必要と認めて大に望みを属するものなり」としている。」
福沢は、西洋文明の基盤であるキリスト教の意義を認識したからこそ、ショー等宣教師の宣教活動を積極的に助け、キリスト教宣教の庇護者と呼ぶことすら可能な局面を、その生涯のなかに多くもっていたのである。
福沢自身はキリスト教を信仰するには至らなかったが、彼は、日本近代化の「大門」としてのキリスト教の重要性は充分に評価し、その効用には大きな期待を寄せ、理神論には共感を抱くようになったものと考えられる。しかし、古賀教授が指摘するように、福沢は、「形而上」的なものに興味を示さないことから、キリスト教を専ら実際的なものとしてのみ捉えていたようである。
主な引用文献
現代思想研究会編『知識人の宗教観』2章 藤田友治「宗教は茶の如し」−福沢諭吉の宗教観−(三一書房、1998年)
白井尭子『福沢諭吉と宣教師たち』−知られざる明治期の日英関係(未来社、1999年)
小泉仰『福澤諭吉の宗教観』(慶應義塾大学出版会、2002年)
(更新日:2009.07.25)