町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

はるかぜ vol.4 2008年8月号市政報告『はるかぜ』

2008.08.01(金)

・「公助」か「共助」か「自助」か
・なんとなく生きられなくなった、日本

「公助」か「共助」か「自助」か

1、らん丈の市議会での一般質問

 法律の条文は、読んで楽しいというものではありませんが、よくよく読むと、なるほどなと思わせる文言が記されていることがあるものです。けれど、すべての法律の条文を理解している人はいない、といってもいいでしょう。
 そこで、今年(2008年)の町田市議会第2回定例会でらん丈は、下記の一般質問を行ったのです。  「海外渡航中の療養費は、国保加入者の場合、帰国後保険者である町田市に請求すると、療養費が支給されることがあるのです」が、それにしたところで、知っている方はごく限られているのではないのかと思い一般質問で取り上げました。
 この一般質問を受けて、町田市は『国保のしおり』でそのことをより詳しく記載するよう制度の周知に努める、とのことです(『町田市議会だより』第169号4頁参照)。

2、日本は「超高齢社会」

 国際連合(国連)の定義によれば、全人口に占める高齢者(65歳以上)人口の比率が7%を超えた社会を「高齢化社会」といいます。この定義に従うと、日本は1970年(昭和45年)に、高齢化社会へと突入しました。
 次の段階は「高齢社会」ですが、それは、高齢者人口が全人口の14%を超えた社会です。
 日本は、1994年に「高齢社会」となりました。こうして日本は、わずか24年で「高齢化社会」から「高齢社会」に移行したことになり、これは、世界的にみて極めて短い移行期間だったのです。
 ちなみに、他国が高齢化社会から高齢社会への移行に要した年数は、米国で71年、フランスに至っては115年もかかったのです。いかに日本の移行期間が短かったのかが、お分かりいただけることでしょう。
 そして日本は昨年高齢化率が21.5%に達したため、もう一段階進み、「超高齢社会」になったのです。
 このように、日本は世界に先がけて、最速の勢いで高齢者が増えている国家なのです。
 まして日本は、世界一の長寿国ですから、これからますます高齢者が増えていくことになるのです。
 そのひとつの対応策として、政府は今年(2008年)4月1日から、後期高齢者医療制度(長寿医療制度)を始めました。

3、長寿医療制度

 この制度に関して、とても重要なことは、医療給付費の5割に公費を重点的に投入し、現役世代から後期高齢者に4割を仕送りし、高齢者の医療費を国民皆で支える制度だということです。
それ以前の老人医療制度は、老人保健法や老人福祉法等をもとに運営されたのですが、その老人保健法の第2条には、次のように記されています。
第2条 国民は、自助と連帯の精神に基づき、自ら加齢に伴つて生ずる心身の変化を自覚して常に健康の保持増進に努めるとともに、高齢者の医療に要する費用を公平に負担するものとする。
 このように老人保健法では、「高齢者の医療に要する費用を公平に負担するものと」していたのです。
 では新たに施行された、長寿医療制度とは、どのような制度なのでしょうか。
 この制度に関しては、名称も含めて、不満を抱く方も少なからずいらっしゃることでしょうが、長寿医療制度を法的に規定する「高齢者の医療の確保に関する法律」での第1条では、次のように記されています。
 「この法律は、国民の高齢期における適切な医療の確保を図るため、医療費の適正化を推進するための計画の作成及び保険者による健康診査等の実施に関する措置を講ずるとともに、高齢者の医療について、国民の共同連帯の理念等に基づき、前期高齢者に係る保険者間の費用負担の調整、後期高齢者に対する適切な医療の給付等を行うために必要な制度を設け、もつて国民保健の向上及び高齢者の福祉の増進を図ることを目的とする。」
 上記にあるように、この法律は、「高齢者の医療について、国民の共同連帯の理念等に基づ」いたものなのです。
 ですから、この法律の施行にあたり、この主旨を国民に理解させることができなかったのならば、それは、政府の説明責任が問われなければならないのです。
 この「共同連帯の理念」という箇所が、らん丈は重要だと考えるのです。

4、「公助」か「共助」か「自助」か

 2005年度の日本の医療費は、総額33兆1,289億円でした。その医療費を賄う財源は、社会保険料と税金と患者が病院に支払う窓口負担の3種類です。
 その内訳は、それぞれ上記の順に、49.2%、36.4%、14.4%といった比率となっており、窓口負担が比率としては最も少なく、逆に最も多いのは社会保険料です。
 これを簡単にいうと、保険は「共助」であり、税金は「公助」であり、窓口負担は「自助」といえるのではないかと思います。
 これからの日本は先ほど記したように、お年寄りが確実に大変な勢いで増えていくのです。
 そして2025年度には、厚生労働省の見通しによると、国民医療費が56兆円になろうというのです。つまり、2005年度から20年経つと、国民医療費が約23兆円増えるのですが、それはいったいだれが、どのくらい負担するのが相応なのか。
 そんな議論を、そろそろ本格的に交わす時期に来ているのではないでしょうか。
 たしかに、負担が増えるのを喜ぶ市民はひとりとしていないでしょう。
 しかし日本は、2008年現在、厚生労働省が発表した「簡易生命表」によると、女性は23年連続して世界で最も長寿を誇り、その平均余命は85.99歳ですし、男性は世界3位で79.19歳という平均余命です。トシを取れば、だれしもそうですが、病院に通う回数が増えるのです。その治療費は、だれがどのように分担すればいいのかということです。
 日本は一般会計分だけで毎年1兆円近く、社会保障費が増え続けるといわれるのですが、政府は「2007年度からの5年間で増加額を1.1兆円抑制する」という方針です。これは、これ以上の累積赤字を抑制しようという意図によるものですが、それも限界に近づきつつあるのです。
 これを北欧のような「高負担高福祉」型に移行することによってまかなうのか、ヨーロッパのような「中負担中福祉」型にするのか、米国のような「低負担低福祉」型のままでいるのか、そろそろ国民的な議論を喚起すべきではないでしょうか。
 これは、日本政府だけではなく、ほかならぬ町田市でも同じです。
 原則として、負担が低ければそれに応じて行政サービスは、さほど高いものにはなり難いでしょう。
 では、負担が低いままで、高い行政サービスを維持するには、どうしたらいいのか。
 妙案があるわけではありませんが、通常考えられているのは、市民自らサービスに携わるということです。
 もはや流行ではなく根付いた感がありますが、市民と行政との「協働」という考えがあります。
 それに関しては、町田市が2007年に策定した中期経営計画のうち、戦略目標1で「市民協働のまちの創造」をうたっていることもあり、突飛な意見ではないと思われます。

5、国民年金法

 最後に再び、法律に戻ります。
 自助というのは、文字通り自ら助けるという意味です。
 しかし、自分で助けられない場合は、どうすればいいのでしょうか。そのときに大事なのが、公助です。
 たとえば、現在国民年金加入者は、20歳から60歳になるまで40年間にわたって保険料を支払って、それに対して、780,900円が老齢基礎年金として給付される仕組みです。
 しかし、保険料を支払えない国民年金加入者もいらっしゃることでしょう。

 そんな方のために、国民年金法では、その第27条第8項で、次のように記しています。
8.保険料全額免除期間(第90条の3第1項の規定により納付することを要しないものとされた保険料に係るものを除く。)の月数(480から保険料納付済期間の月数、保険料4分の1免除期間の月数、保険料半額免除期間の月数及び保険料4分の3免除期間の月数を合算した月数を控除して得た月数を限度とする。)の2分の1に相当する月数

 例によって分かり難い条文ですが、保険料を納めなくても、被保険者=加入者が社会保険事務所にその理由を届け出れば、それが正当と認められた場合には、半分の給付があるということです。
 これが「公助」でしょう。
 このように、これからの日本は、「公助」と「共助」と「自助」を組み合わせて、住みやすいまちにする、というのが基本なのだとらん丈は、考えます。


なんとなく生きられなくなった、日本

1、日本車が「ビッグ3」を凌駕

 変化は徐々に進んでいくために、その場にいるとさほど強く意識することはないものの、気が付くといつのまにかすっかり変わってしまった、ということがあるものです。
 たとえば、今年(2008年)の7月、米国での自動車販売で、米大手3社「ビッグ3」(GM、フォード、クライスラー)の新車売り上げ台数が史上初めて、日本メーカー8社の合計台数を下回ったとのことですが、今から10年前の1998年においては、「ビッグ3」の合計シェアは70%を超え、日本車はわずか20%台前半に過ぎず、「ビッグ3」の牙城には、到底及ぶ存在ではなかったのです。
 それが、たったの10年で逆転してしまうとは、当時のいったいだれが予測できたでしょうか。
 あるいは、日本のビール会社は、ほぼ4社での寡占状態ですが、その売り上げにおける推移も、かなり劇的です。
 以前であれば、家庭用ビールはキリンのラガーと決まっていたようなものですが、今や、ドライだの発泡酒、リキュール(発泡性)といった具合に、多種多様な品揃えになりました。
 ビールでは、アサヒのスーパードライが一人勝ち状態になって久しいものの、その首位にしたところで10年後にはどうなっているのか、見当もつきません。
 ここで大事なのは、選択の幅が格段に広がったことと、否も応もなく選択を迫られる局面が無闇と増えたということです。

2、定食好きな日本人

 わたしは、10カ国ほどの外国にしか行ったことはありませんが、そのいずれの国でも、昼食を摂るために入った、日本でいう大衆食堂で、「日替わり定食」は、そのメニューになかったように思います。
 ところが、日本でランチを食べようとすると、「日替わり定食」のないお店を探す方が難しいのではないでしょうか。
 そして、その店に入ると、多くの方は定食を注文します。
 あるいは、寿司屋さんに入ってカウンターに座った場合、たいていの方は、「適当なところを見つくろって」といって、板前さんにその選択を委ねるのではないでしょうか。
 つまり、日本人はお仕着せがけっして嫌いではない、どころか、結構好きなのですね。
 ところが、米国人は選択することに本源的な喜びを見出す人たちのようです。
 たとえば、米国発のサンドウィッチ屋さんでサブウェイというお店がありますが、あそこは選択の連続です。
 まず、パンです。ハニーオーツ、セサミ、ホワイト、ウィート。長さは、レギュラーなのか、ロングなのか。トッピングは、チーズ、ベーコン、ツナ、アボガド、エビ、ダブルミートのどれなのか。ドレッシングはどうするのか。バジルマヨネーズ、チリトマトソース、シーザードレシッング、赤ワインビネガーソース、わさび醤油ドレッシング。それに加えてドリンクはどうするのか、までを含めてじつに多くの選択を強いる。
 これらすべての選択をしない限り、サンドウィッチにはありつけないわけで、注文が終わる頃には疲労困憊していて、とても食べるどころの話ではないわけです。
 ところが、米国人はこれをじつに嬉々として選ぶわけですね。選ぶことに生きがいを見出しているといってもいいほどに、選ぶのが彼らは好きなのです。
 このように、同じ人間でありながら、日本人と米国人とでは様々な面で違いがあるのです。
 先ほどの寿司屋の例を繰り返すならば、カウンターに座って注文するのを事細かに指示してもいいのですが、おおかたの日本人がそうするように、板前さんに選択権を預けたほうが、結局のところ新鮮でいいネタを口にすることができるのではないでしょうか。
 つまり、自分の食べたいものはそれとして、専門家の判断に委ねたほうが、うまいものにありつけるということを日本人は知っているのです。
 そんな日本人には、今日のように、なんでも選択を迫られるという状況は、あまりありがたいことではないでしょう。
 たとえば、固定電話ですが、以前は電信電話公社しかなかったのですから、選択もなにもありません。
 ところが、今や自由化のおかげで、通話区分ごとに登録先を指定するのです。つまり、市内通話、同一県内の市外通話、県外への通話、国際電話。
 それぞれどの電話会社を使用するのかを選択しなければいけないのです。米国人ならば、喜んで選ぶでしょうが、多くの日本人は、「適当なところを見つくろって」と言いたい方もいらっしゃることでしょう。
 しかし、時間を逆戻りさせることはかなわず、市民の厳しい選択に耐えられる議員になるべく、今後とも勉強を続けていく所存です。