町田市議会議員 会派「まちだ新世紀・みんな」/(社)落語協会 真打 三遊亭らん丈
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「経営科学」は、早稲田大学大学院社会科学研究科政策科学論専攻の講義課目で、担当は、常田稔教授でした。
【1】と【2】、それぞれ2単位で構成されており、そこでの課題レポートを掲示します。
【筆者が直面した実際のマネジメント(この場合は、意思決定)の問題】
私は、1999年4月24日午後9時過ぎ、交差点で青信号の道路(京葉道路)を自転車に乗車して横断中、右折してきた普通乗用車に撥ねられた。
その結果私は、乗用車が追突したことによる打撲のために、右脚脾骨を骨折し、乗車していた自転車ごと転倒した。
それを見た加害者である乗用車の運転手は、携帯電話にて直ちに救急車を呼び、救急車到着後、事故現場直近の病院に私は搬送された。
当日は土曜日で、入院した病院の規模がさして大きくない病院だったためか、全科の医師が夜勤していたわけではなく、唯一夜勤で詰めていたレントゲン医師に、骨折部位のレントゲン写真を撮影してもらい、同医師に鎮痛剤を処方され、それを服用するも、あまりの激痛のために、その夜は一睡もすることができなかった。
なおその骨折は、診察の結果全治4週間であることが、後に判明した。
その一夜の筆者の状況を補足説明すると、私の年齢は40歳。その3年前に落語家として、真打に昇進していた。
その夜、痛みのために眠られぬまま、来し方行く末をつらつらと考えるうちに、それまでの人生では一度たりとも思いもつかなかったことを思いついてしまった。
それは、今回の交通事故で運悪く私が死んでいたら、「自分の人生とは何だったのであろうか」という問いであった。
そこで、レポート課題に答えたい。
(1)目的もしくは目標は何であったか
これは、あまりにも難しい問題である。
ごく粗笨な見立てを許されれば、それは、私にとっての“人生の目的は何か”、ということにまで深化発展するが、人生の意義を真剣に考えたことは、それまでなかったのにもかかわらず、事故に遭い入院した当夜、痛みのあまり眠られぬままに生まれて初めて自らの“人生の目的は何か”という命題に図らずも、思いが至ったのは紛れもない事実である。
そこで私は、粗忽にも人生の目的とは、なんらかの意味で、公共の福祉の増進に寄与することにあるのではないかということに思い至ったのである。
ただこの公共の福祉と概念化されるのは、ずっと後のことで、そのときには、内村鑑三の『後世への最大遺物』(岩波文庫)にある有名な言葉、「われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより世の中を少しなりともよくして往こうではないか」という文言を思い出し、それを私は実現させていないことを痛いほどに認識させられたのである。
つまり、私が生きてきた40年間で、なにか直截に公共の福祉に寄与することを成しえたのかと問われれば、黙って俯くしかないのであった。
(2)代替案(複数)は何であったか
自らの人生の目的が、公共の福祉の増進に寄与することといっても、落語家なのだから、落語を語り、それによってお客様に喜んでいただくのが、広義の公共の福祉の増進に寄与する、という考え方は充分に可能であろう。
それは、すでにして1981年から実践している。本当にお客様が、私の落語で喜んだのかと問われれば、忸怩たる思いには問われるものの。
そうではなく、もっと積極的に「公共」を意識してそれに寄与したいとなると、さて、自分にいったいなにができるのか。
つまり、落語に代わってなにを以て、公共の福祉に寄与できるというのであろうか。
率直にいって、ずいぶんと厄介なことを思いついてしまった、というのが正直なところであるが、思いついてしまったのだから、仕方がない。
通常考えられる「公共の福祉」に最も寄与する仕事といえば、公僕〔ただし実情は、理想とは程遠い;『新明解国語辞典』〕といわれるのだから、公務員になることが早計かとも思ったが、そのときすでに40歳であったので、年齢制限に抵触してしまうために、一般公務員への道はすでにして閉ざされている。
そこで、統治機構としての三権について改めて考えた。すなわち、立法、行政、司法である。
司法に携わるのであれば、司法試験に合格しなければならないが、それは実際上無理である。
行政職ならば、上記のように公務員が該当するが、年齢制限があり、これも無理である。
残ったのは、立法である。議員秘書ならばどうか、とも考えたが、私は自動車運転免許証を持っていないために、それが必需である議員秘書も断念した。
ならば、いっそのこと、議員になってはどうかと考えた。
(3)私が判断した最適な代替案は何であったか
上記のように、公共の福祉に携わる際に、落語に代わる最適の代替案を考えると、三権の統治機構をもとに考えて、その結果、消去法ではあるが、立法職が残った。
さはさりながら、立法職といっても、衆議院議員にすぐになれるわけではもちろん、ない。
ならば、最もハードルが低い議員である、基礎自治体の議会議員になろうと考えた。
しかし、議員になるにはその勉強をしなければならないと考え、翌年、母校である、立教大学の経済学部に編入すべく、経済学の勉強を始めた。
経済とは、経世済民、まさしく、政治を学ぶに相応しい学部だと考えたからである。
退院後、直ちに編入学試験に向けての受験勉強を始め、翌年の試験に無事合格し、念願の経済学部3年次へ編入学し、地方財政学のゼミナールに入った。
その間に、どの選挙に立候補すべきかを考え、当時在住していた墨田区ではなく私は、ふるさとである東京都町田市での市議会議員選挙への立候補を考えるようになった。
町田市議会議員選挙は次回、2002年2月に施行されるのがわかったために、それに向けて、翌年2001年町田市に移転した。
(4)私はどのような理由でその代替案を最適と判断したのか
(2)で触れたように、代替案を選択した最大の動機は、年齢的なものが最も重要な要素であった。
私のその時点での年齢が40歳ということは、まだ様々なことにチャレンジできないわけではないものの、すべての分野に参入するには、いささか薹が立ちすぎていたからである。
もちろん、市議会議員にあっても、それほど簡単になれるものではないことはいうまでもない。
それが証拠に、2002年2月に行われた町田市議会議員選挙においては、2,016票を頂いたものの、定数36のところ、40位で落選の憂き目をみた。
ただ、御蔭で、2005年に早大社会科学部への学士入学を果たすことができた。
おそらく議員であったら、3度目の大学入学は、考えなかったことであろう。
その結果、同学部卒業後、今年度、大学院社会学研究科に進学し、「経営科学」の講義を受講できるようになったのである。
したがって、この代替案をもって最適と判断する次第である。
(更新日:2007.07.01)