町田市議会議員 会派「まちだ新世紀・みんな」/(社)落語協会 真打 三遊亭らん丈
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さる2月27日、歴史家の網野善彦さんがお亡くなりになったことは、多くの方々にとってはすでに旧聞に属することでしょう。
網野さんといえば、百姓は農民のことではなく、江戸時代までは文字通り、様々な仕事に携わっていた人々のことであったのが、やがて百姓は農民のみを指すようになり、農民や農村を中心に語られるようになる日本観が定着していった、つまり、日本列島には多様な人々、多様な地域、多様な社会が存在したことを歴史のなかから掘り起こしたことで、刮目された歴史家です。
氏が展開した論考のひとつに、日本という国は「単一民族による古くからの単一国家」という常識を、「近代社会が生み出した虚構」と否定したことが、挙げられます。
網野さんは、東大を卒業後、都立高校の教諭を経て、名古屋大助教授、神奈川大教授を歴任したのですが、勤務先の都立高校の同窓会が先生をよんでの講演会を企画したことがありました。
そのとき、先生の控え室を訪ねた面識のない一教員が、「もしも網野さんが今この高校にいて、日の丸に敬礼し、君が代を歌え、それに従わなかったら処分するといわれたらどうなさいますか」と先生に問い、問われた先生は一瞬の間を置いたあと、一語一語噛みしめるように「ぼくは、処分を覚悟で反対するでしょうね」と、断乎とした口調で答えられたそうです。
3月11日に開かれた、衆議院憲法調査会基本的人権小委員会では、思想・良心がテーマとなり、参考人の野坂泰司(学習院大学法学部長)が、日の丸への敬礼や君が代斉唱を拒否した教員が職務命令違反で処分されていることについて、「日の丸や君が代に複雑な思いを抱いている教師や児童もいる。歌わない、起立しないなど消極的参加は少なくとも認められるべきではないか」と述べています。
先月から朝日新聞と産經新聞の間の社説で、国旗・国歌について論戦を展開していることは、問題の明確化のために資するものがあると、ぼくは歓迎するものです。
ぼくは大抵のことは、シンプリファイ=単純化して考えるようにしています。そうするとものの本質がよく分かると信じているからです。この場合も、シンプルに考えれば、自然に結論は導き出されます。
たとえば、ぼくは落語家の端くれですが、師匠や諸先輩を尊敬しているので、自然に“師匠”という敬称をつけます。これは、強制されたからそう呼ぶのではなくて、そう呼ばずにはいられないため、自ずからそう呼んでいるのです。
国旗や国歌も同じことではないでしょうか。日本という国に国籍を持つものとして、日本に尊敬の念を抱いていれば、国旗や国歌に接したときに、自然にそれに相応しい態度を取るものです。
そもそも、敬意の強制は粋ではないし、だいたいにおいて大人げがない、という気がするのです。
そうすると、マナーとしてあるいは、けじめとして、かくあるべき態度をとるべきだと主張なさる方がいらっしゃるでしょうが、それは、憲法が保障する「思想及び良心の自由」を侵す疑いがあるのではないでしょうか。
敢えていえば、強制して、国歌を歌わせたり、国旗を仰ぎ見させるというのは、国歌や国旗に対する冒涜ではないでしょうか。 むしろ、国歌を歌わない自由を認めたほうが、愛国心は涵養されるものとぼくは信じています。 ですから、強制して国歌を歌わせると、愛国心が育つという考えには、どうしても与することができないのです。
たとえば、師匠から、「いいか、おれはお前の師匠なんだから、ちゃんと師匠と呼べ」といわれてごらんなさい、弟子はその師匠を尊敬できますか。 そんなこと言われなくても、弟子は充分に心得ており、師匠のことはなにも言われなくとも「師匠」と呼びますって。
その日の丸を背負わずにイラクに入国した邦人3名が、「サラヤ・ムジャヒディン(戦士隊)」と名乗る組織によって拘束されました。
全員一刻も早く無事帰国されることを祈るばかりですが、政治は、常に最悪の事態をオプションとして、考慮しなければなりません。これこそ、危機管理というものです。
それにたいして、福田官房長官はこの事態を受けて、「自衛隊が撤退する理由はない」と言明しました。
さて、この判断を国民はどう受け止めるでしょうか。紛糾するのは当然のこととして、国民あっての国家です。
(更新日:2004.04.09)