町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

柳澤 協二『検証 官邸のイラク戦争-元防衛官僚による批判と自省』らん読日記

2013.09.28(土)

柳澤協二『検証 官邸のイラク戦争-元防衛官僚による批判と自省』(岩波書店、2013年)
 上記書へのコメントの視角は、下記の2点。
1、官僚と政治家の役割の違い
2、あるべき役割分担
《特記》上記書は、慶應義塾大学大学院法学研究科「憲法特殊講義」【1】[統治機構の現実の理解に向けて](森永 耕造 講師)における指定図書。

 著者はイラク戦争当時防衛官僚として、「それを所与の前提として受け入れ」政策を立案、実行していた。その後、退官した著者が、「自分自身が関わった政策について、問い直した」ものが本書である。

1、官僚と政治家の役割の違い
 イラク戦争とは、著者によれば「「大量破壊兵器がテロリストの手に渡る危険から世界を救う」目的のために、「イラクが保有するそれらの兵器を武装解除する」ことを目標に、その手段として、「武装解除に応じないフセイン政権を排除する」戦争であった。」当時の状況を考えれば、この政策目的が誤りだったとは言えない 。しかしイラクが、あるとされる大量破壊兵器の廃棄に応じない以上、戦争によって武装解除するほかはない、とする論理には、「バイアス」が存在した。

 それは、イラクという敵対者を潰すことが新たな潜在的敵対者への見せしめになり、アメリカと世界の安全に通じるという発想からもたらされたものであった 。ただし、それ以前の「冷戦時のアメリカには、「大量破壊兵器の脅威」に対して、本格的な戦争によって対応する方針はなく、その実績もなかった」 。

 このような背景があるなかで9.11が起こり、ブッシュ政権はこれを「戦争」と認識し、「テロ集団とそれを支援する国を区別しないこと、テロリストがアメリカ本土を再び攻撃する前に海外でテロリストを攻撃する」という「決意」に裏打ちされていたのである 。この決意の真因は、9.11のような大惨事に見舞われた場合、指導者は国民に向かって強いイメージを出す必要に迫られるからであり、「リスクにたじろいで何もしない」という選択肢は、ないものとされたからである。

 開戦に伴うリスクは当然ながらあるが、「バイアス」の下にある指導者の意思を変えることはできなかった。その理由の一つは、戦争を「望ましくはないが使うべき手段の一つ」とする価値観であり、もう一つは、世論に抗してでも自らの信念を貫くことに、政治指導者が自己満足するヒロイズムがあることの二つである。

 ところが、イラク戦争は、その前提となった大量破壊兵器が存在しないことが判明したにもかかわらず、「政権の悪質性を理由に戦争を正当化し続け」たところに「この戦争の本質的な動機が隠されている」 と、著者はみる。それは、理念に走る超大国アメリカと、利害を考えてそれにしたがう日本ら「有志連合」が、ともにイラク戦争を支持するという矛盾を孕んでいた。

 2003年3月18日には、その翌日の米英軍によるイラクへの開戦を待たずに、小泉総理は、アメリカの武力行使を支持することを表明した。この決断に関して、官僚が「支持」を「誘導」した形跡はないが、この決断を官僚は全面的に受け入れる。ここで官僚は、「総理の迷いが伝わるようでは動かない」のであり、小泉政権はイラク戦争を、政府が武力行使を合法化する根拠として「安保理決議687違反による決議678の復活」という緻密な論理を編み出したことによって、一切の留保なく支持することとなる。

 そもそも日本は、憲法9条によって、「非戦闘地域」でなければ武力を行使できない。その「非戦闘地域」とは、概念上の地域であるところに、「自衛隊がいるところが非戦闘地域なんです」という小泉首相による答弁がなされた問題の淵源がある。

 これは、政治家にのみ許される発言であろう。イラクのような「国内戦」においては、「非戦闘地域」という概念の適用は無理があったのかもしれないが、政府による従来からの憲法解釈を前提とする限り、他に考えられる法的枠組みはなかった。このような危険な任務の達成のためにどの程度の犠牲が許容されるか、それを決めるのが政治家である。その際、「総理の考えを忖度しながら官僚があらかじめ選択肢を準備して総理の決断を待つ」手法がとられる。

 政治で決めるにあたって、小泉政権では、官邸が外交・防衛戦略をリードした。これに関係閣僚による協議をくわえる場合には、法律化されていない案件では、総理の決断の段階に至るまでそれは軌道修正でき、総理の責任も保留できたが、第1次安倍政権における「日本版NSC構想」では、強力な事務局の設置が必要とされた。その際の不安材料は、政治家は選挙での当選を考えねばならず、危機管理で必要とされる毎日24時間の待機が可能ではない、ということであった。

 このように、選挙によって選ばれる政治家の活動には官僚にはない、制限がくわえられる。

 本書中、政治家と官僚を異にする最も印象深いタームは、「私は、武器使用権限に関する自衛隊の思いを理解しないわけではないが、それは本質的には、政治家がいかなる任務を与えるかにかかっている」 というものである。つまり、政策課題を決めるのが政治家であり、それに対する官僚による政治家へのアプローチは、「進言」や「説明」に限られ、それらをどのように取り扱うのかは、専ら政治家の判断に委ねられる。民意が、ある法律の制定を求めている場合、その法案を作成するのは官僚であり、それを実現させるのは国会を形成する国会議員であるため、官僚にとって政治家は、「お世話」 になる対象となる。

2、あるべき役割分担
 1、において、民意を実現させるのは政治家であると指摘したが、民主主義国家において、民意は至高の意思であるものの、それはつねに最善であるとは限らない。たとえば、わが国では増税を支持する民意はさほど強固なものではないが、増税は超少子高齢社会となったこんにちの日本では、避けることはできない政策課題である。

 そんなときには、民意の体現者である政治家ではなく、民意に翻弄されない官僚が政策推進の立場を担うことが考えられる。民意の有り様とその実現は、民主主義国家に欠かせないものであるが、最善と思われる意思の実現も重視すべきものであり、それにあたっては官僚が積極的に寄与すべきであると筆者は考える。