町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

ロナルド・ドゥウォーキン『平等とは何か』小林公 訳(木鐸社)らん読日記

2009.11.20(金)

Sovereign Virtue:The Theory and Practice of Equality
by Ronald Dworkinの邦訳『平等とは何か』であり、原著の表題である「至高の徳」は、いうまでもなく平等を意味する。p.617
小林 公〈立教大学〉教授、大江 洋〈岡山大学〉教授 他 訳

 「平等論の根本問題は、分配的正義の脈絡において人々を平等な存在として扱うことは人々の「何を」平等にすることかという問題であるが、第1章と第2章はこの問題にあてられている。」p.617
 「第3章では分配における平等と自由の両立可能性が論証されている。資源の平等論によれば自由と平等は衝突しあう独立した政治理念ではなく、自由は平等の一側面と考えられ、どのような資源の分配が市民を平等な配慮で扱っているかに関する最善の観念に従って自由は保護されなければならない。」p.618

【箇所】2009年度後期 早稲田大学大学院法学研究科
【科目】社会保障法研究Ⅱ
【担当】菊池 馨実 教授

第Ⅰ部 理論篇 第3章 自由の地位 pp.168-255 
本章は1986年10月30日にアイオワ大学法学部で行われた講義と類似した内容のものである。p.249 初出:Iowa Law Review(1987年)

Ⅰ 緒論:自由と平等

 自由という言葉を、「法的拘束からの自由」と、「分配上の平等との関連性」からみたものと、2種類の問題として本章では措定する。p.168
 ↓
 「資源の分配や利用を規律する法はどのようなときに万人を平等な配慮で取り扱っているのかという点について更に十分な説明を加えていくと、自由と平等の二つの理念は融合することになるのである。」p.171
 「リベラル派の人々がそれを保護することに最も強い関心を抱く自由を侵害することが、このように理解された平等に寄与するものと見なされるようなことはなく、仮にあったとしても極めて稀であろう。」p.172
A 有名な衝突
 「広く人々がそう考えているように、果して自由と平等はしばしば衝突することがあるだろうか。」p.172
「選挙運動費」
 「一人の人間が合法的に出費しうる金銭の額を制限する法律を制定した。この制定法の目的は平等主義に立脚するものであった」が、「しかしながら最高裁判所は、当該の制限は合衆国憲法の修正第1条によって保護されている言論の自由を侵害するものであると判断し、この制定法の関連部分を違憲とした」 p.172-3Buckley判決
「基本的な必需品における私的領域」
 英国では、国民健康保険制度が施行されているが、「金を払えば私的な医療を受けることができ、このことにより彼らは、(略)順番を待たずに優先的に診療を受けることが可能となっている。」p.173⇒英国では混合診療を認める風潮を助長している。
「最低賃金と最長労働時間に関する立法」
 「多くの人々が最早耐えられない状態と感じ始めていた野蛮な経済的不平等を改善するものとして、これらの法律は歓迎された」が、「最高裁はニューヨーク州の規制を違憲と宣言した。」p.173
 「平等が一部の人々によってどれほど重要なものでないかを示す物語としても極めて印象的なものである。」p.174Lochner判決
B 二つの理念の二つの意味
 「本章で私が検討するのは、規範的な理念の間での(自由と平等との)衝突である。」p.176
C 自由は権利であり、好きなことを行ってよいということではない。←句点がついている
 「自由と平等は、異なった様々な解釈や具体的観念を許容する抽象的な概念なのである。」p.176
 「好きなことを行いうる状態としての自由ではなく、特定の自由な行動に対する明確に限定された一種の権利としての自由を保護しているのである。」p.178
D 平等―自由を覆う影
 「自由と平等が本当に争い合うことになれば、争いに負けるのは自由のほうでなければならない」p.178
 「平等の要請と衝突するような何らかの自由権の存在を平気で主張するようなことはできない。」p.182
E 平等の諸観念
 「我々にとっての問題は、もし極めて魅力的だと私が考える平等観念を我々が採用したときに衝突が生ずるか、ということである。」p.185
F 否認しておくべき点
 「もし資源の平等が分配上の平等に関して最善の観念を提示するものならば、この種の論証は失敗に終る、というのが私の主張である。資源の平等によれば、我々が根本的に重要と考える自由権は実は分配上の平等の一部分ないし一側面ということになり、それゆえ平等が達成されればこれらの自由権も自動的に保護される。」p.185-6
 「私の論証は自由を平等に従属させるようなことは意図しておらず、むしろ、自由と平等(略)これら二つの価値は単一のヒューマニズム理念の二つの側面、相互に反映しあう二つの様相であることを示すのが私の意図である。」p.186

Ⅱ 二つの戦略
A 戦略の区別
 「功利主義の平等観念は、長期的にみて平均的福利が可能なかぎり極大化することを促進するような分配を理想的分配として定義する」が、「この定義は自由の問題を未決定のままにしている。」p.187
B 利益に基づく戦略
 利益に基づく戦略が成功したときは魅力的であり、「この戦略は、自由権を既に含んでいるようなことのないもっと基本的は正義についての想定から当の自由権を導出することによって、自由を確固とした基盤の上に据えようと企てる。」p.189

Ⅲ 自由を競売にかけることができるか
A 利益を基礎とした論証
 「資源の平等のもとで自由と平等は衝突するだろうか。」p.193
 ここで、資源の平等という観念を確認すると、「他人に割り当てられた財産や他人が自由にできる財産を羨むような人が一人もいなくなるように分配される」状態をさすが、「現実の社会では、(上記の)羨望テストに完全に合格するような分配はありえない。」p.193
 これをモデル化すると、任意の人間が入手する資源は、彼以外の人々からみた当の資源の機会費用によって左右されるのであり、それに依存する制度を我々は欲する。
 資源の平等のもとで自由と平等をうまく和解させることができるのは利益に基づく戦略だけであるが、両者を調和させようとすると、自由のほぼ全面的な敗北が帰結するだろう。pp.194-5
B 重大な誤り
 「ところが幸運なことに、以上の表面的には破壊的にみえる議論は誤っている。」「理想的分配において(略)利益に基づく戦略を用いると、資源の平等にとって由々しい結果が生ずることを示すためであった。」「利益に基づく戦略は、資源の平等の内部では何の意味も持ちえないのである。」p.198
C 新たなる出発
 「平等主義的分配の定義それ自体から魅力ある自由観念が導き出され、かくして自由と平等は衝突しえない」p.202

Ⅳ 抽象化の原理
A 架橋的な形態の戦略
 構成的戦略に対する反論は、自由が既に平等の定義自体に内在しているような仕方で平等主義的分配を定義し、平等と自由の衝突はありえないと宣言する。P.203
 その際、構成的戦略の架橋的な形態と名づけるものをドゥウォーキンは指摘する。それは二つあり、ひとつは、平等な配慮を要求し、もう一つは資源の平等を提案する。
B 真の機会費用
 「人々が平等の分前をもっていると言えるのはどのようなときかを判断するには、資源を測定する方法が必要であるが」、「資源の平等は、機会費用という特別の測定法を用いる。」
 それは、「ある人間が持つ移転可能な資源の価値を、当の人間がそれを持つことで他の人々が見合わせねばならない価値として定義する。」 pp.205-6
 続いて、「各人が持つ資源全体の機会費用が同一になったとき、この種の資源は平等に分割されているとそれは判断する」と展開されるが、脚注1で指摘しているように、この判断が適切であるか否か、経済学観点をそこに加えた場合、その判断は留保される。
 「もし我々が真の機会費用という観念が有意味であることを示せなければ、(略)資源の平等は、絶望的なほど不確定となるがゆえに、空虚な平等観念だということになるだろう。」p.206
C 道徳の強制
 「自由=拘束の体制としてどのようなものを選択しても、ある人々の生活は送りやすくなり、他の人々の生活は送りにくくなるのであるから、少なくとも資源の平等のもとでは、人々の生活をすべて平等に送りやすくする形態での中立性は実現不可能である。」pp.211-2
  ↓
 「この種の中立性は、私が福利の平等と呼んだ別のタイプの平等観念に属している。資源の平等はこれとは異なる意味での中立性を目指している。」p.212
 「各人の社会的条件が他者に及ぼすコストを測定する平等主義的構造の内部で、当の社会的条件がどの程度まで満足のいくものかを問うことによって、各人の要求がテストされるのである。」pp.212-3
 「私が提案する基準線の体制においては、宗教や個人的道徳を根拠にしてのみ正当化されるようなどんな拘束も認めない基準線から出発して競売を執り行った結果、機会費用が確定するわけであるが、このような体制においてこそ、資源の平等に相応しい仕方で、正統的見解を抱く人々と特異な見解を抱く人々の利益の均衡のとれた調整が実現するのである。」p.213
D 修正
 「拘束によって外部経済 を一般的に修正するやり方のほうが、一般的に外部経済を考慮しないやり方に比べ、大雑把にみて、これら偶然の利益を人々の間でよりよく平均化できるように思われる。」p.216

Ⅴ 他の諸原理
A 真正性
 「抽象化の原理は、確かに自由の推定を強めはするが、(略)ある特定の拘束が特に有害であることが立証されないかぎり、ある自由を他の自由より基本的ないし根本的なものとしてランク付けることによって様々な自由の間に差別を設けることはない。」p.217
p.218「明白にして現在の危機」clear and present danger『今そこにある危機』
 アメリカの判例理論で、表現の自由を規制する立法及び処分の憲法適合性の判断の基準として判例法上発展してきた。「表現の自由の行使によって、重大な害悪が生ずるという緊急の切迫した危険があって、他の手段ではその発生を防止できず、しかも、表現行為と害悪の発生との間に、不可避的な密接は因果関係のある場合にだけ、表現行為の制限が許される」というのがその内容である。『有斐閣法律学小事典』
 「資源の平等によって是認されるどのような競売の体制も、この種の信念や企図等々を形成し再検討するために是非とも必要になる様々な活動に彼らが従事する自由を特別に保護するような何らかの基準線の原理を必要とする。」p.218
 「真正性の原理および抽象化の原理が安全性の要請と争い合うどんな場合でも、抽象化より真正性のほうに重いウエイトを置くべきだということであり、(略)表現の自由を保護すべきだということである。」pp.219-220
B 独立性
 「独立性の原理は、ある人々が組織的な偏見の対象となっており、当の偏見によって何らかの重大な、あるいは広範な不利益を被る恐れがあるとき、彼らを偏見から守るために必要な基準線の拘束を是認することによって抽象化の原理を抑制する。」p.221
 「平等主義的な基準線の自由=拘束の体制に対して消極的および積極的なインパクトを及ぼす独立性の原理は、我々が選択するのに相応しい手段と思われる。」p.222

Ⅵ 現実世界への帰還
A 改善の理論
 「平等観念は、理想的な平等主義的分配を説明するだけでなく、明白に不平等な分配の平等主義的改善と見なされるものを説明しないかぎり無価値である。(略)次の課題は、資源の平等に適合し、我々の社会を現実のものより平等主義的にするための指針として機能するような改善の理論を構成することである。」p.223
 「改善の理論の目標は、持分の欠損を減らすことでなければならない。(略)持分の欠損はどのように算定されるのだろうか。」p.224
B 不平等の程度
 「各々の平等観念は改善に関する自らに固有の明確な理論を伴わなければならず、この理論は理想的平等について当の観念が与える一般的説明と整合的なものでなければならない。(略)福利の平等は、持分の欠損を福利の損失として定義しなければならない。この平等観念にとって、ある人間の持分の欠損は、福利が平等であるとしたら彼が享受するであろう福利のレヴェルから彼の現実の福利のレヴェルを差し引くことによって確定される。」p.224
 「ある人間がそうあるべき状態より悪いとされるとき、(略)資源を持っていないのかもしれない。あるいは現実に効力をもつ基準線の体制が、それ自体で資源の平等に相応しくないのかもしれない。」p.225
C 平等の総体的な増大
 「我々は、平等の優勢的(dominating)改善を生み出すような計画を受け容れることができる。私が言っているのは、他のどのような人間の持分の欠損も増大させることなく、ある一部の人々の持分の欠損を減少させるような計画である。これはパレート改善と同じものではない。(略)パレート改善より実際上はるかに重要なものと言えるのである。」p.229
 「優勢的改善は真に平等の改善と見なせる唯一のものである、と結論するのは誤りだろう。(略)例えばもしある計画が新たな自由の欠損を誰にも押しつけることがなく、資源の最大の欠損を背負う集団の資源状態を改善するならば、他の人々のさほど大きくはない資源の欠損がこれで増大するとしても、他の計画は明らかに平等を改善すると言えるわけであるが、(略)これは次の条件が充たされる場合に限られるだろう。つまりこの計画が社会で最も不利な立場に置かれた集団のメンバーの欠損を減少させるとき、当のメンバーの誰かしらが得る最高額より大きな欠損上の損失を被る人が他に一人もいない、という条件である。」p.229これは、(33)にあるように、「ロールズ的な形態のマクシミン原則より慎重なものとなる。」p.255
D 擁護可能な平等主義的分配
 「改善についての我々の理論は、(略)再分配の計画で、我々の共同体を分配の理想にもっと近づけてくれるような計画を想像可能にする。」p.230
 「分配は改善についての我々の理論に従えば、機会費用によって判断される平等の方向を目指して明らかに改善されうるからである。」p.230
 「可能性を不完全な仕方でランク付けできる、と期待することは理にかなっているだろう。ある擁護可能な分配は他の分配より現実に達成される可能性がはるかに高い、という判断を我々は下せるはずである。」「擁護可能な分配においては(略)誰も自分の資源を好きなように利用することを法律で禁止されることはないだろう。」p.232
 「共同体は抽象化の原理が断罪するあらゆる拘束の除去を含む一連の措置を通じて平等へと常に前進することができるだろう」p.233

Ⅶ 自由と不正
A 真の現実世界
 「真の現実世界では、どちらかと言うと技術的な困難さより政治的な困難さのほうが脅威である。(略)我々の失敗は、意志と創造力の失敗であるが、主として正義の失敗である。平等のためにもっと多くのことをしたいと思う市民や公職者は、非常に多様な論点や問題に直面することになる。」p.234
 「非常に不完全にしか平等が実現していない社会においてならば、自由に対する拘束は正当化されるのでろうか。(略)選択の自由を制限することは、非常に不平等な社会において平等を改善するための正当な手段なのだろうか」p.235
 その際、つぎの諸点が「基準線」として留意される。
1、「選択の自由が既に存在することを想定しないかぎり、理想的な平等主義的分配を原則的にでさえ特定化できないことを議論した」p.236
2、「人々は良心や言論の自由、あるいは性的な態度決定における選択の自由を他のタイプの自由にも増して大切にしているから、たとえ真に現実的な世界が不完全なものであっても、少なくともこの種の根本的な自由だけは保護されねばならない」p.237
3、「架橋的な形態の戦略は、理想的平等の基準線の中で、あるタイプの自由に権利としての特別な地位が与えられることを推奨する。(略)例えば言論の自由にこの種の特別な地位を与えている。」p.237
 「上で述べた自由の特別な役割を論拠にして、ある特定の自由はいかなる妥協も免れているべきだ、などと主張することはできないように思われる。」p.237
B 犠牲の原理
 「共同体がそのメンバーの一人に自由の欠損を押しつけたとき、共同体は彼を犠牲にしていると言うことにしよう。(略)これを犠牲(victimization)の原理と呼ぶことにしよう。」
「この原理は、実際には不完全な政治しか行われていない現実世界において、自由と平等を調和させていることになる。」p.238
「私は、一個の憲法解釈としてみても、ロックナー事件の判決は誤っていたと考える。(略)ニューヨーク州がとった行動は、もしそれが共同体内のいかなる個人や集団をも犠牲にすることなく、自らの平等観念を促進させるもっと一般的な計画の一部であったならば、誤っていなかった。(略)換言すれば、憲法はロックナー事件で退けられた形態の社会的立法を、原理の問題ではなく政策の問題として取り扱っているのである。」pp.243-4
C 基本的自由
 「資源の平等は何らかの理想的世界では自由を保護するにしても、我々の政治が実際に行われる現実世界では我々が基本的とみなす自由でさえも危ういものにしてしまうのであるから、結局のところ自由を全面的に侵害してしまうのではないか、という不安である。」p.244
 「本章の議論は、これら(基本的自由)がまさに根本的なものである理由を立証するのに役立つのである。」p.245

Ⅷ 回顧
 「資源の平等において自由はどのような地位を占めているのだろうか。もし私の議論がおおかた正しいとすれば、自由は根本的で確固とした地位を占めていることになる。(略)自由はこの結果の一部ではなく、反対に資源の平等が是認する何らかの競売の基準線の中に固定されているのである。」p.245
 「我々の政治文化には、自由が重要だということだけでなく、あるタイプの自由が他のタイプの自由より一層大事だという考え方も含まれている。(略)ある種の自由を根本的な自由としてランク付けするための付加的な根拠を見出した。つまり、ある人の社会的ないし経済的状態が他の点でどのようなものであろうと、この種の自由を全面的に否定された人は、我々の政治の現実世界において犠牲にされる可能性が特に大きい、ということを我々は指摘した。」p.246
 「資源の公正な分配を達成するための有益な状態としてのみ自由を気にかけているにすぎないかのようである。この反論に対して私は次のように答えた。本章の形式的な論証は、自由と平等の両立可能性の主張以上のものを含んでいない、ということである。
(略)私は、これら二つの価値が本当に衝突するならば平等のほうが優先すべきだと主張したが、(略)自由と平等がそれぞれ独立した価値ではなく、人々の政治的な共同の営みに関する同一の理念の二つの様相にすぎないことを主張する。」p.247
「私が主張したように、リベラリズムが資源の平等に相応しいのは、競売がうまく執り行われるためにリベラリズムが形式的に必要だからではなく、抽象的な平等主義原理を資源の平等の立場で解釈したときに、リベラリズムな基準線のほうが、これに代る他の基準線よりも適正にこの平等解釈を表現しているからである。」 p.248(1)
「問題となる資源が仮に他の人々の手中にあったとしたら、彼らは当の資源を好きなように自由に利用することができただろうと仮定することによって測定されるべきことを想定しているからである。機会費用はヤーヌスのような観念である。それは一つの顔で平等のほうを向き、もう一つの顔で自由のほうを向いており、二つの価値を融合させるのである。」p.248(2)

まとめ
 「資源の平等論によれば自由と平等は衝突しあう独立した政治理念ではなく、自由は平等の一側面と考えられ、どのような資源の分配が市民を平等な配慮で扱っているかに関する最善の観念に従って自由は保護されなければならない。」p.618
 「資源の分配を機会費用に依らしめる資源平等論は、機会費用の正確な測定のために人々の選択が各自の真正な企図に適合することを要求するがゆえに自由を保護する。」p.618-9
 「資源分配が人々の真の機会費用を平等化することになるような競売の様態を選び出さなければならない。」p.619

若干のコメント
1、p.233下から10line
 「私的医療を許可することは、資源の平等が是認するような仕方で分配を機会費用により敏感に呼応したものにするわけである。」という、「機会費用」を用いた説明があるが、すでに記したように、ドゥウォーキンが使う「機会費用」は、経済学上のそれと必ずしも一致したものとはいいがたいようである。
 では、ドゥウォーキンはどのような意図でそれを使用しているのであろうか。上記p.248(2)における「機会費用」の用法が、ドゥウォーキンの意図を考える際に理解しやすいものと評者は考える。つまり、「問題となる資源(=機会費用)が仮に他の人々の手中にあったとしたら、彼らは当の資源を好きなように自由に利用することができただろうと仮定することによって測定されるべきことを想定している」ものが、「機会費用」というのである。
 その際、「機会費用」を平等の測定基準として用いている。
2、p.230、上から3line 「分配の理想」
 経済学上、「分配」と「配分」は峻別される。それは、下記のとおりである。
「配分と分配」allocation and distribution 『岩波現代経済学事典』p.1812
 資源や財をどの用途にどれだけ使うかを配分といい、生産の成果や初期の資源を誰がどれだけ取得または所持するかを分配という。(略)効率性は配分についていわれ、衡平や平等は分配についていわれる。分配は、生産物や所得、つまり、生産の成果についていわれることが多い。
 当然ながら、上記にある「分配」概念を、ドゥウォーキンもまた真摯に踏襲していることが本章からはよみとれる。
3、ドゥウォーキンが本書において展開する論の進め方の特異性について。
 「従来の小説では、整理された現実が神のごとき視点で描かれる。ところがこの小説は小さな子供の目で見るところから始まり、よくわからない現実がだんだんとわかってくるように書かれている。」(丸谷才一が自ら訳した、ジェイムズ・ジョイスの『若い藝術家の肖像』について語ったもの)朝日新聞09年11月 18日[夕]
 同じように、ドゥウォーキンもその論考を「神のごとき視点」から行うことなく、思考が振幅するさまを読者に実直にみせるため、読者は本書を読むと、その思考に揺すられているかのような錯覚にとらわれることになる。e.g.⇒p.237における論考
4、舘野泉(ピアニスト)が、朝日新聞09年11月13日[夕]「人生の贈りもの」で、つぎの談話を発表していたのでご紹介したい。
 「(吉松隆)の作品は前から好きだったから頼んだんだけど、弾いてみたら、まったく初めての「ことば」だった。どうピアノで実現していけばいいのか、見つけるのに1年かかった。(改行)こんな無理な、ムチャなことやらされて、これじゃオレの左手ダメになっちまう、両方ダメになっちまったらどうしてくれるんだ、なあんて本人に言ったこともあるくらい。(改行)でも1年くらい格闘してたら、彼の「ことば」が見えてきた。自分のなかに溶けてったのかな。そしたらもう難しいとは感じなくなって、だんだん曲が大きく育ちはじめた。」
 ドゥウォーキンの著作を読んでいて、上記のことがじつによく理解できた。本章の後半にいたりやっと、彼の「ことば」が見えてきた思いに評者はとらわれたものである。