町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

慶應義塾大学大学院 法学研究科 政治学専攻「政治・社会論特殊研究」大学での活動

2013.05.16(木)

【箇所】慶應義塾大学大学院 法学研究科 政治学専攻
【開講学期】2013年度 春学期[2単位]
【科目】政治・社会論特殊研究 政治過程における民主主義の理論と分析Ⅰ
【担当】小林 良彰 教授〈慶應義塾大学大学院 法学研究科〉
【テキスト】コリン・ヘイ『政治はなぜ嫌われるのか』民主主義の取り戻し方-訳 吉田 徹 教授〈同志社大学 政策学部〉(岩波書店)
Colin Hay,Why We Hate Politics,Cambridge,Polity Press,2007 ※脚注部分は省略

〔日本語版への序文〕擁護しがたいものを擁護する コリン・ヘイ〈シェフィールド大学〉
 本書は、政治を批判しているのではなく、それを擁護しているものである 。それ「では政治をどのように擁護したら良いのだろうか。それには、バーナード・クリックの1960年代の名著『政治の弁証』での議論が有用である。ここでクリックは、政治とは公共財の提供のために必要不可欠なものだと主張した。つまり、集合的な問題に対して集合的な処方箋を見つけ出す葛藤こそが政治なのである。」 

 1960年代以降、集合的な公共財の提供を政治に期待することがいかにナイーヴなことかが、政治学では論証されてきたが、「私たちの政治文化を侵食するシニシズムを蔓延させた罪を政治学は悔いることができるばかりか、その解決策となるかもしれない」 試みとして本書は著された。そこで取られた手法は、「我々の見方のベースになっている通俗的な見方を見事にひっくり返す」 ものである。

※頻出する「道具主義(instrumentalism)」を、次に記すように考えたい。
 野家啓一がデューイを論じて、「人間が抱く観念や思考は、環境との関わりのなかで生じた問題状況を解決へと導く手段、すなわち行動のための道具なのである。」『岩波社会思想事典』(2008年)232頁。

第1章 政治に対する幻滅 pp.1-81
 今日では「政治」は、dirty wordになってしまった。←著者は、政治不信の原因は、政治家、ましては政治そのものではなく、政治不信を培養する「私たち自身」とする 。

「政治と公共善」p.2
 政治とは複雑かつ多様な社会で、全員を等しく拘束する意思決定のために求められる行為である 。合理的選択論の用語でいえば、現代社会は集合行為問題の広がりに悩まされている。集合行為問題とは、個人が自らに最適と思われる利益を追求した場合、ある集団に共通の、あるいは共有されるべき利益が得られない問題を指す 。

 本書が設定する問題は、次のとおりである。
1、現代政治において、政治権力に携わる人々はそれを自己利益的な手段としているとする有権者の見方は正しいといえるだろうか?

2、それでは、有権者は、なぜそのような見方をするようになってしまったのか?

3、政治は、集合行為の問題に対処する能力を、どの程度失ったのか?

4、現代社会の問題を政治が解決することができないのは、なぜなのか?

「政治分析の課題としての政治不信」p.4
 現代の政治に対する幻滅が蔓延した理由を2つあげると、1)公共選択論の台頭と、2)グローバル化に伴って様々な課題が浮上したことが指摘できる。

「政治への幻滅はどこから来たのか」p.7
 現代の政治不信の大きな理由として、政治が必要悪でしかないと考える人にまで、政治の影響力が及ぶようになったことがあげられる。しかし、政治がネガティヴであるとする見方は、じつは昔からあったのである 。16世紀のマキャヴェリは『君主論』で、「政治に関わる者全員が、強い動機に突き動かされていると考える必然性がない」 ことを示している。

「政治不信をマッピングする」p.16
1、市民が、公式的な政治プロセスに参加する機会
2、市民が、非公式な政治行動にどの程度参加しているのか
3、政治家や政府への信用や信頼がどのように変化したか
これら3つの論点を同時に扱うことで、現代の政治不信の性質と広がりをマッピングできる。

投票率:長期に渡って一貫して低下傾向にある。
 ただし、社会民主主義国である北欧のノルウェー、デンマーク、スウェーデンは安定的な投票率を実現させ、市場志向的なカナダ、ニュージーランド、アメリカ、イギリスの英語圏の国々は、投票率が低位で推移している。

人口的な要因:ある有権者が投票するかどうかは、初めての選挙で投票したかどうかによる。そして、その最初の選挙が昔であればある程、そしてその際に投票していれば、続く選挙でも投票する可能性が高い。投票するか、投票しないかは、早い段階で決まり、その後この習慣は大きく変わることはない。

(社会経済および教育による要因)
 投票を含む政治参加の水準は教育水準と大きく関係しており、教育水準の高い有権者であればある程、政治に対してシニカルで、政治家に対して懐疑的であるとも主張されている。

(公式的な政治参加のトレンド−党員数)
 党員数の低下によって、政党が市民を政治に参加させる動員手段を失いつつある。動員の減少が投票率の減少に、投票率の減少が政治的関与の減少に、という負の循環が強化されているが、新たな萌芽もみられる。それは、従前とは異なる政治参加の形態が増えていることである。

(公式的な政治参加から非公式的な政治参加へ?)
 非公式な政治表現のチャンネルに、多くの市民が参加するようになり、その一例として、政治的な意味を持った消費行動が増えたことがあげられる。そこでの活動は、インターネットを利用しているため、物理的な隔たりを超えており、個人単位の抗議活動を緩やかにコーディネィトすることに特徴がある。これは、現代の政治参加のパターンを、より広い豊かな文脈の中に位置づけようとする動きととらえられる。

(民主主義と正当性、政治的アクターへの信頼)
 市民は最善の統治システムとみなす民主主義が必ずしも善い結果を生むわけではないと考えているゆえに、政治離れとシニシズムを自ら招き寄せているが 、それは、90年代初頭以降のことであり、1959年の調査では、イギリス人は自国の政治制度とそのあり方に高い誇りを持っていた。

 英米のデータをみる限り、有権者が政治家に対して不信の念を抱いている要因は、次の3つに集約される。
1、政治家が実際には、党や自身の狭小な利益を追求している。
2、政治家が上記の利益を追求する中で、それが大きな利益体に絡めとられている。
3、政府が税金を無駄に使っている。

「政治はなぜ白けの対象になるのか−有権者に責任はない」p.50
 現代の政治的な白けと政治離れについての説明は、次の3つの理論に大別される。

 パットナム『孤独なボウリング』における「社会関係資本論」social capitalにみる理論
1)投票率の低下は市民の公的な義務感覚が薄れているからだといった通俗的な見方。
2)政治的無関心の広がりは決して落胆すべきことではない。
3)パットナムの理論の変形であるが、投票年齢の引き下げに伴い、早期の段階での投票習慣の確立がなされないことによる政治への無関心。

(「批判的市民」の問題提起)
 ピッパ・ノリスの提起した「批判的市民」では、「政治に参加することそのことが善いものとはいえない」 と主張している。その政治的志向は、「脱物質主義的価値観」である。←サプライ・サイド側が変化した可能性が等閑視されている。=「現代の政治で何かが根本から間違っているのだとすれば、その何かを特定しなければならない」 

(投票年齢引き下げの結果)
 マーク・フランクリン「合理的投票者のパラドクス」→いかなる状況下でも投票に赴くのは非合理。←コメント3
「政治を取り戻す−サプライ・サイドによる選択肢に向けて」p.70

 政治不信に関するサプライ・サイド要因としては、次のことが考えられる。

1、先進自由民主主義国の選挙における「マーケット(市場)化」⇒選挙は政策の本質的内容ではなく、政党リーダーの性格や、誠実さを基準に戦われる⇒合理的に投票を棄権

2、真の選択肢を有権者に提供できる政府の能力が、グローバル化によって制約されるようになった。
 ディマンド・サイドとサプライ・サイドという区分は、すっきりしているが、それほど単純に区分できるのか。→コメント4

第2章 政治、政治参加、政治化 pp.83-120
 「政治」の意味を12種類に分類しているが、それを敢えて一言で捉えると、「統治」に関する問題を解決する際に資するものであると、考えられる。
 上記12種類以外にも、たとえば、フェミニストの問題を政治学が取り込むことを企図してもよいが、アジェンダに乗らないため、実際には取り上げられない。

「固有の政治コンセプト、包括的な政治コンセプト」p.88
(選びとる行為としての政治)
 「選択こそが政治の核心であると明白に位置づける」 

(行為としての政治)
 政治は「作為の能力」である。それは、「物事を変えることのできる能力を得られる」 ことである。

(討議としての政治)
 政治は、公的な討議と結びついている。それは、集団的な意思決定を、集団的な責任によって行おうとするものである。

(社会的な相互作用としての政治)
 政治は、社会的な活動である。ただし、集団的な選択か集団に影響する結果がない限り、それは政治的な行為とはいえない。

「政治的な参加、政治的な非参加」p.96
 政治参加の問題、それを政治化と脱政治化のプロセスについて検討すると、次にみるような4つのタイプに分けられる。

タイプ1:最も基本的な政治化の形 →政府の意思決定に影響を与えようとする政治家や政党による活動

タイプ2:非政府アリーナ→今まで政治争点化されてこなかっ
た争点を法制化しようと、公式的な政治の領域を拡張しようとする。e.g.フェミニズム等の社会運動が、公衆の意識を高めようとした。→「意識変革(consciousness-raising)」活動

タイプ3:公式的な政治チャンネルと政治プロセスを迂回しつつも、公式的な政治が扱うべき政策や争点に固執する。→おそらく最も頻繁に行われる、直感に基づく政治参加。

タイプ4:政府領域の外にある非政府アリーナを志向している。→個人的なものとみなされていた争点について、公衆の関心を引こうとする特徴も持つ。e.g.フェア・トレード⇒あらゆるものが政治参加となってしまうおそれがある。

「政治化と脱政治化」p.106
 政治は公的領域と私的領域に分かたれるが、ある争点が政治化されるには、次にあげる3つの移動経路のうちの1つを辿らなければならない。政治化とは、経済学における外部性である。

「必要性の世界」→私的領域→公的領域→政府領域
 その反対に脱政治化は、上記の3つの移動経路のうち、反対方向のいずれかを辿らなければならない。

(政治化はどのように生じるか)
 たとえば、家庭内暴力の刑罰化といった、世論がすでに高い関心を持つ論点を政治アジェンダに上程できれば政治化が達成される。現代においては脱政治化がトレンドの基調になってはいるが、それでもなおかつ政治化のプロセスを無視することはできない。

(脱政治化はどのように生じるか)
タイプ1:公式的な政治の争点が、公的ではありながらも非政府領域へと移行される場合。政策形成に関して、政治家が有していたものを準公的な機関に転嫁する場合が該当する。たとえば、金融政策を中央銀行に担わせるといったように、再配分に直結するような政策領域において、その誘惑は高まる。脱政治化の最後の形態は、ナショナル・レベルの政治制度の特定争点を、トランスナショナル・レベルへと移管する事例である

タイプ2:公的領域で政治化されていたものが、私的領域に、つまり家庭内や消費行為の領域へと移管されること。→政府や企業に環境破壊の責任はなく、それは消費者にあるとされた場合。

タイプ3:討議の領域から必要性と運命の領域へと責任が移転される場合。→先進自由民主主義国ではグローバル化は不可避であることから、私たちが物事のプロセスを管理したり統御する能力を持ち合わせていないとする思考や主張から生じている。

「結語」p.117
 本章では、政治と政治的なものについてのコンセプトを、体系的かつ検証可能な形で検討された。その過程で、狭義に捉えると政治を政府と同義であるとし、政治的なものをその内容よりもそれが発生する文脈を重視した。広義では、政治をプロセスと捉えた。

 この2つの定義の違いから、そのまま政治参加の問題について2つの異なる診断が導き出されることも確認された。狭義でみた場合、政治に参加しない者は政治に無関心だと決めつけられてしまう。反対に、政治を広義で捉えた場合、社会的な相互作用の全てが政治的だとみなされてしまい、政治参加の憂慮すべき水準を十分に反省できなくなってしまう。

第3章 脱政治化の国内的源泉 pp.121-166
 今日、公式的な政治からの離脱や政治不信が蔓延しているとされるが、その理由を理解するために、有権者が政治アクターに対して持っている特定の想定と、なぜそのような想定をするようにかったのかを考えるのが、本章の目的である。

「脱政治化の公的政治」p.123
・脱政治化をアカデミックな言説では、例外なく批判している。→政治家と彼らによる選択を社会から隔離し、責任や説明責任、批判から免れること。=民主政治において、市民に対する政府の民主的な義務を否定すること。

・実務家は、脱政治化をむしろ褒め称えている。(英国のシンクタンク「ヨーロッパ政策フォーラム」)→政治は強力な利益団体に「捕捉」されて、コストがかかり、非効率で、隙あらば権限を拡大しようとする。→自らの責任を独立機関やその他の委員会に移管するのは奇妙なことである。=倒錯→政治家はこれが実際に良い政治をもたらすと真剣に考えている。←コメント1

「公共選択論」p.129
 市場の失敗を修正するには国家介入と規制が欠かせないとする厚生経済学に対抗して、1960年代に「政治の失敗についての学問」として公共選択論が発展した。→国家よりも市場を優先することから、新自由主義と親和性を持っている。→政治家や「公務員」の悪意を想定した上での定型的なモデルを生む。←コメント2

「新自由主義と公共選択論の親和関係」p.129
 新自由主義を8つの視角から定義しているが、そこでは「自由」へのコミットメントが重視される。
 新自由主義のあり方は、前後期に分けられ、前期は先進自由民主主義国を襲う「危機」=財政赤字を政治化し、新自由主義がその解決策をもたらすと主張。→サッチャーリズム、レーガノミクス。後期は、「新公共経営(NPM)」、経済学を援用して、グローバル化の時代においては新自由主義が最も信頼できる経済パラダイムを構築すると主張。→「残されている唯一の選択肢は新自由主義であると正当化されることによって、あらゆる批判から免れることに成功した」 

「政治化を伴う新自由主義、脱政治化を伴う新自由主義」p.135
(アローの不可能性定理)
 「合理的なアクターによる社会的は選好をフェアに集計した結果、民主主義の原則を犯さずに多数派の選択によって集合的な合理的選択を下すことが本当にできるだろうか」「それは不可能である」 というもの。→現代の政治不信と政治離れの論理的な源泉→公共選択論が生まれた→民主主義が持つ複雑性を捉える不可能性を示した=明らかに民主的な政治システムでも政治権力が独裁に陥る可能性を指摘した。

(政治による荷重負担)
 荷重負担説は、政治的荷重負担と官僚的荷重負担に分けられる。前者はヨーロッパで、後者はアメリカで影響力を発揮した。
政治的荷重負担説:政治家は経済的な帰結を無視して再選される可能性を追い求め、有権者は自分の物質的利益のみを投票の唯一の理由とする。←コメント3→政治家に対する社会的幻想を破壊した。

(官僚制による荷重負担)
 予算を常に最大化しようとする官僚制によって集合的な非合理性が生まれる。→公共財を供給する国家の能力についてのシニシズムを醸成した。

(ダウンズと選挙競合の市場化)
 「政党が有権者のことを消費者として捉えれば捉えるほどに、合理的投票者のパラドクスが自己実現化していく。」 

(結語)
 政党が合理的に行動することで、有権者は投票することが非合理となる「合理的投票者のパラドクス」は、合理的選択論によっては、現実のものとなる。

第4章 脱政治化のグローバルな源泉 pp.167-204
(グローバル化と民主的な政治的討議は対立するのか)
1、グローバル化とは不可避な外部からの経済的な強制であって、良好な経済パフォーマンスを維持するためには、専門的・技術的は対応が必要であるため、国内の政治的討議の公共的性格と矛盾する。
2、公共政策に一定の民営化と脱政治化を促して、これを公的な説明責任から免除してしまう。
3、グローバル化が国民国家の政策形成能力と自律性を奪う

(「ハイパー・グローバル化」)
 新古典派経済学では自明のこととされているハイパー・グローバル化のいずれの説も、理論面・実証面から見て疑わしいものばかりであるとされる。
 「新古典派経済学に感化されたモデルに添って法人税率の実効税率が下がっている事実もなく」と178頁で指摘している。←コメント1

(グローバル化とは何を意味しているのか)
 グローバル化の定義を本書では、デヴィッド・ヘルド等による「グローバル化とは、社会的な関係とやり取りの空間的編成の変容を内包し、大陸横断的あるいは地域横断的な流れ、活動や相互作用、権力のネットワークを形成するプロセスないし一連のプロセス」 としている。

(独立変数としてのグローバル化)
 「貿易、直接投資、金融に関する実証データをみる限り、「グローバル化」という言葉で現代の経済統合のパターンを言い表すのは不適切である」 との指摘がある。
 「グローバル化に統合された資本市場が存在するならば、比較的短期間のうちに、短期・長期の金利レートは国際的に統一されるはずである」 ←コメント2

(従属変数としての国家の収縮)
 グローバル化によって国家の政策形成の自律性が減少しているというのも、不正確な指摘である。←コメント3

(グローバル化肯定説のレトリックと現実)
 「国際的な経済統合についての研究が進めば進むほど、グローバル化の実態についての疑義が生まれている」 が、「グローバル化が一国の政策形成の自律性と民主的討議に大きな影響を与えている経路が存在する」 。それは、「政策立案者がグローバル化に対して抱く考えによって自律性が奪われている」 とするものである。←コメント4

第5章 私たちはなぜ政治を嫌うのか pp.205-218
 前章までで、政治は「どのようにあり得るのか」に力点を置いて再考した結果、政治に対する低い期待と、その期待すらも満たすことができていない政治の現状が描かれた。

(「私たちが望む政治」か、「彼らが望む政治参加」か)
 本書では、「民主政治は、自ら望んだ政治参加の水準を手にする」として、サプライ・サイドの要因を考える。

(誰が非難されるべきなのか)
 今日の政治不信における責任の所在は、有権者と政治家の関係の背景をなしている公共選択論に見出すことができるとしている。それが、民主的統治を脱政治化したために、政治不信は加速された。但し、政治的な白けの責任を公共選択論にだけ押し付けるのも間違っている。非難されるべきは、それ以外の選択肢を見いだせなかったことにある。

(サプライ・サイドとディマンド・サイドの区分は正しいか)
 公的な言説において、「政治」とは、ダーティ・ワードに成り下がっているが、そうなったのは、過去の政治家と比べて、現代の政治家の行いが罪深いものへと変化したからではない。むしろ、私たちが彼らにそのような目線を投げかけ、彼らの行為をそのように判断することに慣れ切ってしまったからである。

(政治と人間性と)
 政治は、協働と信頼があってはじめてうまくいくが、「私たちは依然として、人々がなぜ政治に向かい、人々の政治的行動が何に活性化され、導かれているのかということについて、驚くほど何も知らない」と著者は指摘し、本書を閉じている。

【第1章に対する若干のコメント】
コメント1:社会関係資本等共同体の崩壊によって原子化した市民は「孤独にボウリングする」しかないとされるが、スコッチポルは『失われた民主主義』において、「皆でボウリングをしても政治参加にはならない」として政治的運動と非政治的運動を混同することを批判している。

コメント2:1)自宅でも投票が可能となる電子投票が実施されるようになったら、あるいは、投票所が自家の隣地にあったら、靴の底は減らない。
2)1票差で選挙結果が変わることはなかったとしても、僅差での落選と大差での落選では、立候補者に与える心理的効果やマスコミでの報道において、懸隔の差が生じる。

コメント3:ディマンド・サイドとサプライ・サイドという区分が単純に過ぎるというのならば、はじめからそれに沿った区分をしなければよいのではないか。

コメント4:56頁に、日本を含めた先進国では、社会関係資本は安定もしくは増加傾向にあることが認められているとの指摘があるが、これは、事実とは異なる。一例をあげれば、わが国の消防団員数は、昭和29年には2,023,011人いたのが、昭和40年には1,330,995人に減少し、平成23年には879,978人にまで減少している。それに比して、常備化率は、脚注25にあるように97.7%にまで上昇している。このことから、56頁や80頁にある注14において、「社会関係資本と社会的信頼の水準が安定している」と指摘される前提が、少なくともわが国の場合には、事実とは異なるものと考えることができる 。

【第2章に対する若干のコメント】
コメント1:104頁で、「実際にはあらゆるものが政治参加となってしまうことが問題になってくる」と、政治の定義を拡張することに伴い、政治的なものと非政治的なものとの間の意味ある区別をなくしてしまう危惧を表明していた。それに関して、ヘイウッドは、この点で「全ての社会的制度を「政治的なもの」に含めてしまえば(略)全てを政治だとして、言葉を空疎なものにしてしまう」との指摘を紹介している。その指摘に対して、本書では3つの理由から反論をしている。まず、政治とは、「集団的ないし社会的な選択を下さなければならない状況における、作為の能力と討議のことである、と定義し」ているが、この定義そのものがすでに、包括的で広すぎるのではないのか。
 理由の2つめも同様である。著者は「政治があらゆる社会的配置で存在する可能性であることは(略)私たちが政治をあらゆる場所に見出さなければならないということでも、あらゆる社会関係が政治的用語でもって記述され分析されなければならないということでもない」としているが、この言説も筆者には説得力に乏しいものと考える。
 それを裏付けるように、理由の3つめの冒頭で著者は、「こうした様々な活動が政治的行為もしくは政治参加に数えられるとしても」と敢えて記さざるを得ないこととなったと筆者はみる。

【第3章に対する若干のコメント】
コメント1:本四連絡橋(明石海峡大橋、瀬戸大橋、来島海峡大橋)は、3本架けなければいけない必然性はあったのか。

コメント2:164頁の注5に、公僕(public servants)は、「自分自身にしか仕えない」としているが、わが国の公務員は(建て前といわれるにせよ)、勤務条件法定主義を第一義にして勤務している 。

コメント3:ミクロ経済学からの批判=リカードウの等価定理 、マクロ経済学からの批判:ダイナスティ仮説 

【第4章に対する若干のコメント】
コメント1:たとえば、法人税率が他の先進諸国に比して高率と言われる、わが国の法人税率は、下記のように推移しており、「1980年代からはむしろ若干上がる傾向」との指摘があるが、1990年代以降には税率が下降していることがわかる 。

コメント2:金利レートが国際的に統一されないことを指して、金利レートがグローバル化に統合されていないと指摘するが、これは、グローバル化とユニバーサル化を混同したものではないのか。

コメント3:201頁に、投資に関して、インフレ率と政府債務の額のみを基本的変数としているとの指摘がある。それに対して、たとえばわが国では、中央政府と地方政府を併せた政府債務はGDPの約2年分あるが、国債価格は一向に下落しない理由として、国民の預金額が1千4百兆円を超えることが指摘されている。このことをみても、国民の預金額も基本的変数に入れるべきではないか。

コメント4:グローバル化を、政策立案者の「観念(アイディア)」を以てその経路としているが、グローバル化をそのようなものに収斂させてよいものなのだろうか。より実証的なものに経路を求めるべきではないだろうか。

【第5章に対する若干のコメント】
1、訳者は、「政治へのシニシズムと白けが支配する時、民主政治においてそのツケは主権者である私たちに跳ね返ってくる」と指摘し、「政治に対する態度」にこそ、政治に幻滅する原因があるとしているが、これは、トクヴィルが「政府にとってもっとも難しい課題とは、統治することではなく、人びとにみずからを統治する方法を教えることだ」と指摘していることと重なる考え方だと思われた。

2、政治家に対して、市民が要求や意見を伝えるのは、当然のことであるが、それが、一般意志 であるかどうか、市民が吟味した後に、その意見を伝えることも大事ではないのか。

3、pay as you go原則 をわが国の有権者も考慮したうえで希望項目の予算要求をしたほうが、その希望は叶えられやすくなると思われるが、この原則を使って予算要求している方を見たことはない。

【論点】
1、日本語版への序文で著者は、「政治的なものを公的に擁護すること、それも政治を政治家の言動と切り離して考えることが、今ほど求められている時はない」と記し、そのためには、ジェリー・ストーカーを引いて彼がいう「有能なアマチュア」 を作っていくことが資することになるという。アマチュアでない政治家とはプロフェッショナルの政治家を指していると思われるが、プロとアマチュアを分けるのはどこなのか。

2、第5章の212頁(誰が非難されるべきなのか)で、「非難されるべきは私たち自身である」と記されているが、では、その非難される「私たち自身」は、今後どのように対応するべきなのか。

新たなる視角
「Q・何故、有権者は棄権するのか?」
「Q・何故、有権者は政治的有効性感覚を持てないのか?」