町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

一橋大学 国際・公共政策大学院「行政管理論」課題リポート大学での活動

2011.09.22(木)

【箇所】一橋大学 国際・公共政策大学院 公共法政プログラム
【科目】行政管理論【開講学期】2011年度 夏学期[2単位]
【担当】高野 修一〈総務省中部管区行政評価局長〉、辻 寛起〈総務省行政管理局〉

「行政管理論」課題リポート
1、高野修一先生〔行政管理と行政改革 その歴史とモデル、転換期〜日常の管理運営と非日常の改革 政と官、そして社会〜〕

2、辻寛起先生 課題「我が国の危機的な財政を立て直すために何が必要か」

1、高野修一先生〔行政管理と行政改革 その歴史とモデル、転換期〜日常の管理運営と非日常の改革 政と官、そして社会〜〕
【構成】
1、大日本帝国憲法における文武官と日本国憲法における公務員
2、国家公務員法と地方公務員法と民法と労働基準法
3、行政改革はどうして終わることがないのか

1、大日本帝国憲法における文武官と日本国憲法における公務員
 本講における行政改革が対象とする、主たる人的構成は、公務員である。

 その公務員を日本国憲法(以下、「憲法」という。)でみた場合、その任免権は、「国民固有の権利」とされる 。それを、通説では、「公務員につき、その選定および罷免を直接に国民が行う、という趣旨ではない。選定および罷免が、直接または間接に、主権者たる国民の意思に基づくよう、手続が定められなければならないとの意である」 としている。

 これを昭和22年5月2日まで施行されていた、大日本帝国憲法(以下、「明治憲法」という。)でみた場合、そこでは公務員との文言がつかわれたことはなく、現今でいう公務員を同憲法では、文武官 と記していた。

 その際、文武官の任免権は、天皇にあった 。それは、従来の太政官制の部分的手直しを経て、明治18年に成立した内閣制度による官制を、明治憲法においても踏襲した性格に求められるようである。

 公務員が、明治憲法下では文武官とよばれていた名残の一例を挙げると、国立大学は2004年度に国立大学法人となったのであるが、今でもその教員は教官とよばれることがあるのに対して、私立大学においてはいうまでもなく、その教員を教官とよぶことはない。したがって、私立大学では、教授が定年で退職する場合、定年退官とはいわず、退任という。

2、国家公務員法と地方公務員法と民法と労働基準法
 当リポートの主題である行政改革を、公務員を射程にいれてみた場合、高野先生のレジュメP.4にあるように、(公務員の)「厳格な定員管理」と「総人件費改革(公務員数の純減)」とによって、公務員数を監理することが、今日の行政経営にとっては欠かすことができない要素としてしばしば指摘されるところである。

 それに関して、行政改革によって公務員の定員を増加させよという世論が澎湃として起こった事例は聞いたことがないが、公務員数を減らせという意見は、行政改革とセットといってもよいほどにしばしば聞くところである。

 それでは、どのような方法を用いて公務員を減らしているのかといえば、新規採用を抑制する人事管理上の措置と配置転換に伴う定員の再配置による措置、くわえて定年を迎えて退職者が出ても新規補充をせずに定数を減らす手法が多くの場合とられており、それらの手段をとることによって、公務員の生首問題は棚上げされている。

 そこで、公務員の生首問題をみると、明治憲法下では1、でみたように、文武官の任免権は天皇にあったが、昭和22年5月3日以降公務員の任免権は、憲法にあるとおり、国民である。

 その国民の代表たる国会議員によって定められた法律では、公務員の生首問題、すなわち免職に関しては、国家公務員であれば国家公務員法であり、地方公務員であれば地方公務員法に規定されているとおりであるが、そこには次にあるように規定されている。

 国家公務員法75条1項では、「職員は、法律又は人事院規則に定める事由による場合でなければ、その意に反して、降任され、休職され、又は免職されることはない」とされている。
地方公務員法27条2項では、「職員は、この法律で定める事由による場合でなければ、その意に反して、降任され、若しくは免職されず、この法律又は条例で定める事由による場合でなければ、その意に反して、休職されず、又、条例で定める事由による場合でなければ、その意に反して降給されることがない」と記されている。

 上記国家公務員法75条1項で挙げている法律として、38条に欠格条項が規定されており、これに該当する場合、当該公務員は失職する。ただし、行政改革との関連で問題視されるのは、同法78条であると思われる。78条では、次にあるように記されている。

「職員が、次の各号に掲げる場合のいずれかに該当するときは、人事院規則の定めるところにより、その意に反して、これを降任し、又は免職することができる。 
一  人事評価又は勤務の状況を示す事実に照らして、勤務実績がよくない場合 
二  心身の故障のため、職務の遂行に支障があり、又はこれに堪えない場合 
三  その他その官職に必要な適格性を欠く場合 
四  官制若しくは定員の改廃又は予算の減少により廃職又は過員を生じた場合」
 地方公務員法に関しては、28条に同趣旨の規定がある。

 公務員の免職規定は、上記のように法的に定められているところである。しかし、それに該当して免職された公務員を数としてみると、たとえば4号にある、「官制若しくは定員の改廃又は予算の減少により廃職又は過員を生じた場合」に免職される公務員は、とても少ないのが実態である。

 それを公務員以外の労働者と比較した場合、公務員の免職に該当する解雇を民法では、期間の定めのない雇用契約について、2週間の予告期間を置けばいつでも解約できる旨を定めている(627条1項 )。すなわち民法上は、使用者が2週間の予告期間を置けば何時でも労働者を解雇できるという建前がとられている。

 ただし、この雇用契約(労働契約)の解約のうち、使用者が一方的に行う解雇について、労働基準法では、それに伴う労働者の生活上の打撃(経済的損失)を和らげるため、予告期間を30日に延長する旨と平均賃金30日分の予告手当を支払うことを罰則をもって義務づけたのである(20条1項 )。その際、解雇については、判例により大きな制約が加えられており、整理解雇については、労働者側の事由を直接の理由とした解雇ではないことから、一般の解雇と比べてより具体的で厳しい制約が課されている。それに関しては、裁判例上、「整理解雇の4要件」として設定している。

3、行政改革はどうして終わることがないのか
 私事でまことに恐縮であるが、私は、地方議会ながら選挙に3度立候補して、身に沁みて感得させられたのは、労組の支持を得ないで立候補する者は、行政改革の推進をスローガンとして訴えないと、当選はむずかしいということである。それを招来させているのは、有権者のうち雇用環境の安定を望む非公務員は、公務員を羨望視している感情があるがためである 。

 それは、戦後日本で終身雇用(長期雇用)が長らく制度、雇用慣行としてあったものの、長期にわたる日本経済の停滞の結果、それが制度として維持されなくなってもなお、公務員の場合は、2、でみたように、法律によってその雇用が守られていることに対して、少なくない市民が抱いている感情である。

 そのため、近年では夕張市等の例があり、公共団体といえども財政再建団体におちいることはあるものの、低迷する経済状況下では企業の倒産等によって、公務員と比べた場合、はるかに雇用が不安定な非公務員の労働者のうち、安定志向の者は公務員に対して、ほとんど怨嗟といっても好い感情を抱いているのを感じるから、有権者のうち圧倒的に多い非公務員の支持をいただくために、選挙への立候補者は、公務員を対象とする行政改革を、スローガンとして取り入れることになるのである。

 非公務員のうち安定志向の者が抱く公務員への悪感情は、どうも、理屈では処理できないもののようであって、たとえば、日本の公務員は、フランスをはじめ西欧各国と比べた場合、人口千人当たりの公的部門における職員数の国際比較では、少ないといっても、「非特定独立行政法人への出向や国立大学法人等の職員等のみなし公務員をいれれば、そんなことはない」といった反論をする方が結構多くいらっしゃって、「公務員は多すぎる」と、多くの有権者はおっしゃるのである。

 それをきいた立候補者は、その結果、自らがよってたつ議員の定数の削減とともに公務員の定数削減をスローガンとして掲げるのである。

 これは、文武官が天皇によって任免されていたのに比して、現憲法のもとでは、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とされているのであるから、ある意味では、当然のことなのかもしれない。

 しかし、公務員の定数を減らして、それを肯定的にみようとする国民がいても、公務員の定数を一定以上減らせば、それは行政サービスの低下となって、少なくない国民が不便を蒙るかもしれず、それもまた、「国民固有の権利である」と理解すれば、政府をとりまく行政改革に限界を設けることは、至難のことと観念するのである。

 そして、これが、行政改革が市民にとって常に待望される所以である。

 これでは、経済学でいう、需要と供給の一致点にあたるものを、市民の行政への需要と行政から市民への供給の一致点として、そこに均衡点を見出すことには、大いなる困難を覚えるのである。

2、辻寛起先生 課題「我が国の危機的な財政を立て直すために何が必要か」 

 我が国の財政状況をみた場合、多くの問題点を指摘することができる。たとえば、平成2年をピークに税収は減少しているのにもかかわらず、歳出を削減する努力が足りないことから、歳入と歳出のギャップは拡大する一方であるため、公債残高は、一般会計税収の16年分にあたる約667兆円にまで達してしまったこともそのひとつである。

 しかも、歳出のうち、社会保障関係費と国債費、地方交付税交付金からなる三大経費がその約7割を占めており、いずれの経費も、その額を削減することは困難をきわめる。なかでも、社会保障関係費に関しては、先進国中で最も高い我が国の高齢化率を考えると、毎年約1兆円ずつ増えており、それを抑制するのは不可能に近い。また、社会保障支出と国民負担の推移をみた場合、我が国は給付と負担がアンバランスであり、社会保障支出が毎年増えていてもそれへの負担が同じように増えていないことも特徴として挙げられる。

 このように、公債残高は増える一方の我が国であるが、その特徴は、貸し手のほとんどが国内の企業や投資家に限られることである。それに伴い、公債残高が膨らんでも右手が左手から借金をしているのと同じだから問題はない、という意見がある。

 しかし、公債残高の増大がもたらす弊害は、次に記す3点にわたって見出すことができる。

1、「流動性の問題」。これは、巨額となった債務を貸し手が一斉に返済を求めると、政府の支払い能力を超えてしまうことを意味する。

2、「信頼性の問題」。投資家の財政に対する信頼は、政府が将来行う政策行動とそれに対する予想に大きく依存している。公債残高が大きくなるほど、将来の政府の施策によって、投資家の信頼が動揺するリスクが大きくなる。このリスクが高まると、「流動性の問題」が引き起こされる。

3、「所得再分配の問題」。公債は日本人が日本人に借金している構図だが、一般に国債保有者は富裕層であり、低所得者はほとんどの場合所有していない。政府が国債償還のために増税した場合、税によって国民から集められた資金が富裕層の国債保有者に支払われることになる。こうして、低所得者から富裕層への逆所得配分が行われてしまう。

 こうして、公債残高が増えるにつれてリスクも確実に増大する。それを回避するため、政府が財政を再建しようとすると、それには、歳出削減、増税、インフレの3つの手段しかないことがしられている。

 そのうちインフレは、国民生活を混乱に陥れることになるので避けるべきものと指摘されている。増税は、民間の自由な経済行動をゆがめる負の効果が大きい。歳出の削減は、政府による所得再分配効果が減じられることはあるが、国民の自由な経済活動は制限しないという観点から、正当性があることが認められており、政治的にも支持されやすいものと思われる。

 今夏の電力使用制限令において、東京電力や東北電力管内の対象とされる団体に、前年比15%減の電力使用を課したものの、多くの企業、団体ではそれ以上の節電を実行したことを考慮すると、国家的な目標として歳出の削減を目的化すれば、日本人はそれを実行することができるものと考える。

 ただし、その際問題とされるのは、財政再建の時機を誤って景気の腰折れを招かないようにすることと、歳出削減を国家目標に据えることを明言する政治家があらわれ、それを支持する国民が一定数以上確保されていることである。