町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

『ノーベル医学・生理学賞受賞、利根川進教授講演会』に参加して大学での活動

2003.03.24(月)

 さる3月17日、東京郵便貯金ホールで開かれた利根川進M.I.T.(マサチューセッツ工科大学)教授による講演会「脳を究める−こえからの課題」と、音楽家三枝成彰さんとの対談「右脳とイマジネーション−音楽と脳」を聴講してきました。

 講演内容の詳細は、主催した株式会社クボタのホームページhttps://www.kubota.co.jp/に掲載されるそうですから、興味をそそられた方はそちらをご覧下さい。
 ぼくは上記の講演会と対談を聴いて受けた印象を、以下にスケッチしてみます。

 日本人のノーベル賞受賞者は、昨年受賞された小柴昌俊、田中耕一両氏を加えて五分野12人に上ります。そのうち、医学・生理学部門で受賞されたのは、当夜の利根川進博士おひとりを数えるのみです。
 ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎さんは一度、小田急線の車輌で見かけたことがありますが、それ以外のノーベル賞受賞者を、公共放送の媒体を通すことなしに、じかにその謦咳に接したことはついぞなかったので、今回初めて世界に名だたる知性に接する機会を得たことを喜びとし、いそいそと講演会へと出かけた次第です。

 今年は、生物学にとっては20世紀を画する、二本のポリヌクレオチド鎖が塩基間の水素結合で並列し、互いにねじれあって二重らせん構造を成す、DNAを発見してからちょうど50年目となる節目の年なのだそうです。
 それによると、ヒトとチンパンジーのDNAは99.9パーセントまで同じで、ヒトとマウスでさえ97パーセントまでは同じということです。ですから、人間同士に至ると99.99パーセントまで同じなのだそうですから、そうすると人種の違いなど、DNAのうえからは、ごくささいな違いでしかありません。
 そのDNAをすべて読み取ろうとするプロジェクトに日本の研究者も参加して、現在その解読を進めているさなかだそうですが、DNAの全貌が明らかになれば、遺伝子治療等で実に有益な成果を挙げることが出来るようになるのでしょう。

 利根川先生も触れていたのが、日本の大学における講座制の弊害です。日本の大学は教授を頂点とし、その下に助教授、講師、助手と連なるピラミッド型の講座制を採用しています。その結果、30歳台で教授に昇進する機会は非常に少ないのが現状です。その代わり、その講座制にいったん繰り込まれれば、だれでも教授に昇進することが出来、定年までその職は安定しています。
 ところが、実に多くのノーベル賞受賞者を輩出し続ける米国の大学は、もちろん講座制は採用しておらず、30歳代の教授は決して珍しいものではありません。その代わり、採用年限を6〜7年に限定し、その間に学問的業績を挙げなければ、大学はあっさりその教授にクビを言い渡すそうです。その激烈な競争を勝ちぬくために、学者は研究に邁進し、その結果ノーベル賞を受賞するのだそうです。
 三枝成彰さんも、ベートーベンのような例外はいるにしろ、音楽家で優れた曲を書くのは30歳代が圧倒的に多いといっていました。
 つまり、ノーベル賞を受賞するようなその研究者の代表的な業績も、音楽も、生み出すのは30歳台が圧倒的に多いのだそうです。

 利根川先生は、京大理学部を卒業後、京大ウイルス研究所で分子生物学を学び、その後、カリフォルニア大学サンディエゴ校に留学し同校を修了後、ソーク研究所ではダルベッコ博士のもとで、がんウイルスを研究したそうです。その後、ビザの関係で米国を去らなければならず、スイスのバーゼル免疫研究所の主任研究員となったそうですが、このバーゼル行きのきっかけを与えてくれたのが、他ならぬダルベッコ博士だそうです。
 これは、日本では考えにくいのですが、ごく異例のことなのだそうです。つまり、先ほどの講座制とも関係があるのですが、日本の大学では研究室の研究員に教授が就職口を斡旋するのは当たり前のことです。ところが、米国では研究員の就職先には一切関知しないのが、普通なのだそうです。ところが、ダルベッコ博士は利根川先生に免疫学の重要性を知らせ、それがもとで利根川先生は抗体遺伝子の解読に取り組むことになったのだそうです。これが後に、ノーベル賞を受賞することになる業績として結実するのですから、まさに人間の縁というのは不思議なものです。

 ほかにも面白い視点をさまざまに供する講演会だったのですが、特に、記憶における夢の効用は面白いものでした。つまり、夢をみると記憶が強化されるのだそうです。思い当たる節があり、なるほどなぁと感心させられました。
 もうひとつ、利根川先生が言うのには、従来は、哲学や人文科学で扱っていた学問分野を、こんごは脳科学でも扱うようになるのだそうです。それは、たしかにそうでしょう。たとえば、臓器移植ひとつをとってみても、現在は内臓にとどまり、脳移植の実施例はありませんが、将来、脳移植が実現された場合、脳を移植された人の人格はいったい誰に帰属するのかという問題がでてきます。
 こうなると、科学は将来宗教の分野も担うという、利根川先生の言葉がにわかに現実性を帯びてくるのです。

 最後に、会場となった郵便貯金ホールに集まった聴衆をみて、改めて日本人は向学心に富んだ国民だとの思いを強くしたのでした。聴衆の多さばかりではなく、講演を聴いての反応もじつに伸びやかだと思ったのは、ぼくひとりの感想にとどまるものではないでしょう。
 最後まで、拙文をお読みいただきましてありがとうございました。