町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

『2003年度大学入試センター試験惨敗記』2-教育にたいする思い大学での活動

2003.01.28(火)

 前回の続き、センター試験を受験したその結果を、のっけからお知らせしますと、「国語1・国語2」(近代以降の文章2問、古文1問、漢文1問)の場合、200点満点で平均点99.14点。ぼくの点数は、72点でした。あぁ、恥ずかしい。
 ごらんのような体たらくです。特に酷いのが、古文と漢文です。
 文学部を卒業したとはいっても日本文学科で学んだわけではないので、古文はともかく漢文を読むのは、高校生のとき以来ですから、26年ぶりのことだったという言い訳をしても、200点満点の72点とはいくらなんでもねぇ。

 さて、気を取り直して公民のうち「現代社会」を受験したのでした。現代社会の一員ですもの、まぁ、できて当たり前とはいえ、国語が72点ですからね。
 結果は100点満点で、86点。平均点が61.26点ですからいくぶんかは面目を施したといっても好いでしょう。 だからというわけではありませんが、ぼくはこの「現代社会」の問題をなかなか好くできていると思いましたね。
 問題は大問が7問ありました。以下に順次それを辿ってみましょう。
 まず、第1問は日本国憲法にみる権利と義務の問題でした。小泉首相により、2001年にハンセン病の国家賠償請求訴訟で政府が控訴を断念したことの影響だと思われますが、生活保護基準の合憲性が争われた朝日訴訟の問題が取り上げられていたのは、好感が持てました。
 第2問は、少子高齢化社会が到来した日本の社会保障制度に対する問題でした。なかで1973年が福祉元年との記述がありましたが、それが第1次石油危機によってもろくも潰え去ったという事実を、韜晦した文章によってその記述を曖昧にしているところが気になりました。
 第3問は、青年心理学におけるエリクソン=アイデンティティの拡散、レヴィン=境界人の問題。そして、あまりにも有名なマズローの欲求階層説を説明する問題がありました。改めて驚いたのは、ぼくが高校生のときにはそもそも「現代社会」という科目がありませんでしたが、こんなことまで高校で教わるのかというものでした。
 第4問は、1990年以降の日本経済にみる貿易に関する問題でした。近年の日本とシンガポールとの2国間自由貿易協定の問題までふれており、目配りの利いた設問でした。
 第5問は、近代における都市への人口集中と新たな地域社会の創造、地方の過疎化の問題でした。
 第6問は、環境問題特に、都市交通における「パーク・アンド・ライド」を施行するうえでの留意点。なかでNPOに関する問題も含まれていました。
 第7問は、第5問にもあった地方の過疎化を中心に、日本版金融ビッグバンや不良債権問題、農業問題等、今日の日本が抱える様々な問題を、明確化しています。

 さて、ごく大雑把に問題を振り返りましたが、お分かりのように、今日的な問題を多く含み、また、目配りのよく利いた問題でもありました。
 と同時に、いまの高校では授業でこんなことまで教えているのかという、驚きもありました。
 教育の本義は、人によってその見解はまちまちでしょう。

 ここで、ぼくの見解をいわせていただくならば、教育は過去の人間の歴史=遺産を受け継ぎ、それを次代へと渡すことだと思います。と同時に、新たに生起する問題に正しく対処するために、今新しく創造されている問題を受け止め、それへの処方箋のつづり方が間違いなくできるようにすることも大事です。
 言うは易しという、その典型的な物言いですが、以上が教育に対する、ぼくの基本的な考え方です。

 その考え方からすれば、公民における「現代社会」の問題に対して、“今新しく創造されている問題”への目配りは、行き届いているとは思いました。
 ただ、公民には「現代社会」のほかに「倫理」と「政治・経済」がありますが、そのなかではとくに「倫理」において、過去の人間の叡智に対して深く学ぶ指導が不可欠だと思います。
 いたずらに、今日的な問題にばかり足をとられていると、過去の声に傾ける耳を持たないままに学業を終えてしまうことになります。
 そのことによる文化的な喪失は、将来にあまりに大きな禍根を残してしまいます。たとえば日本人でありながら、万葉集古今集新古今集はおろか、漱石鴎外も読んでいなければ、日本という同じ土壌によって醸成される感情を、分かち持つことが不可能となってしまいます。連綿と続く日本というものが、あるときを境にして、断絶してしまうのです。
 ぼくは、これは避けなければいけないことだと思います。

 もうひとつ、神戸女学院大学の内田樹教授が、“大学の社会的機能の一つはその時代の支配的な価値観とずれていることだと私は思う”というように、大学=教育というものは、そのときどきの価値観へのカウンターパートとなってはいけないと思います。現実に棹をさす心がけを常に持たなければ、いけないのではないでしょうか。