町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

立教大学 法学部「行政学」夏季リポート大学での活動

2000.09.30(土)

【機関】立教大学 法学部専門教育科目
【学科目】行政学
【開講学期】2000年度 通年[4単位]
【担当】新藤 宗幸 教授〈立教大学,2002年度千葉大学法政経学部〉
【課題図書】新藤 宗幸『真の行政改革とは何か』(岩波書店、1997年)

1.過去にみる行政改革の歩み
 世紀の、それもミレニアムの変わり目となる2001年1月6日に、いよいよ日本の中央省庁が再編成される。これを以て政府は「行政改革」の総仕上げとしたいのか、それともようようのことで緒に就く思いなのか。おそらく、前者を目論んでいるのであろうが、そもそも「行政改革」という理念自体、戦後日本の歴代政権が絶えず使ってきた、手垢にまみれたものなのである。

 そもそも、1962年から64年にかけて当時の池田勇人内閣のもとに設置された行政改革のための審議会、臨時行政調査会(第一臨調)が、日本における行政改革なるものの原型を作ったものと一般的に言われている。それは今を去ること38年前のことである。このときは、国家公務員の総定員法の制定や、各省ともに一局削減するといったことを答申するに留まった。

 第二次の臨時行政調査会(第二臨調)(81年3月〜83年3月)も行政改革ないし行財政改革を掲げたが、そこでも日本の基本的な行政制度、たとえば財政や政府規制、金融の制度、中央・地方の関係といったものの改革にはほとんど着手しなかった。行政組織の簡素化のための政府公社の民営化や中央政府から地方自治体に移転している経費の削減、といった次元に終始したのだ。

 そして90年代に入って、いよいよ政治改革が政治の最重要アジェンダとして取り組まれ始めた。政治改革として本来達成されるべきは、近代化の過程においてつくられた中央―地方を貫く政治の集権的な行政体制を見直すことだった。

 ところが、当時の政治改革論議は、実際には選挙制度の改革(衆議院における中選挙区制から小選挙区比例代表並立制への移行)に矮小化されてしまった。中央政府と地方自治体、あるいは中央政府と産業界、このような日本の近代化過程でつくられてきた政府構造そのものを徹底的に見直し、再構築することが政治改革の基本でなければならなかったのに、遂にそれは、達成されることはなかったのである。その理由として、一つは政治家に反省を求めなければならない。つまり、政治家は選挙では一方で行政改革を唱えながら、他方で業界利益を代弁し、あるいは地方の選挙区に帰れば、地元利益の実現を公約に掲げ、票とカネを得てきていたのが実態であった。

 したがって、行政改革を断行するとすれば、政治家は背後の利益、つまり、自己の選出基盤となっているものを切り捨てることによって、初めて新しい政治を行うことができるのである。

2.中央省庁体制の問題点
 2001年から中央省庁が、1府12省庁へと再編成されるが、従前の1府21省庁体制は、1955年にほぼそのスキームを確立した。

 この諸外国に類を見ない、安定した体制を存続することができた原因は、いかようにでも行政の中身を変えることができた、ことに求められる。つまり、設置法令を公権力行使の規範とするかぎり、官僚側は、既存組織のままで柔軟な対応ができることを物語っている。本来国民の側が、現行憲法構造下における省庁設置の問題点を明確に認識して、法律に基づく行政とは何かについて、突き詰めた論議があったならば、これほど安定的な中央省庁編成が存続することは、不可能だった。そして、この「安定」ゆえに、省益が拡大し固定化してきたのだ。

 日本の省庁体制が、今のような事態を生み出した基本的要因のひとつとして、公務員の任用制度が挙げられる。現在国家公務員は試験によって採用しているが、1種、2種、3種ともに政府が一括採用するのではなく、その合格者のなかから各省毎に採用する仕組みとなっており、このシステム自体戦前と変わらない。よって、官庁という一種のイエ共同体意識は、1945年で断絶してはおらず、現在まで脈々と繋がっている。

 1967年には、先述の第一臨調答申を受けて国家公務員の総定員法を制定した。これによって、国家公務員の総定員、各省別定員、各局別定員の上限が定められた。ここで官僚は、各省別の定員を上限で割り振ることで、その枠までの既得権が保証されたものと認識したのである。したがって、官僚において組織面や人事面において、弾力的に行政組織を編成するインセンティブは存在しない。組織の管理にしても、スクラップ・アンド・ビルドを原則とする限り、一定の与えられた範囲内において組織編成を若干変更するのみで、行政組織を政治が動かすことはできない。

 かくの如く既得権としての組織の保証を前提に、日本の近代化過程において作り出されてきた行政特有のやり方は、「官僚制に仕切られた市場」を次々と作り上げてきた。それを業界の構成企業は不満には思わず、むしろ固定化による安定が保証されるものとして、歓迎した。さらにそこに着目した政治家との間で政・官・業のもたれあいによる癒着が生じた。

 このことは、たとえば第二臨調が規制緩和を強調したなかでもあらわれた。規制緩和として電電公社の民営化が行われた。しかしその結果、郵政省に仕切られた電気通信市場が作られてしまった。つまり、第二臨調行革ではたしかに政府公社の民営化という意味での規制緩和を実現したが、戦前期来続いている、日本的行政については、楔を打ち込むことは出来なかったのである。

 次に財政面から、日本の行政を考える。大蔵省にみる予算の要求側と査定側との間の明確な緊張関係の欠如が、高度成長期以降の一般会計における拡張主義的な財政運営と、財投資金による政府の事業化に繋がっている。それは日本の場合、政府がいくら大量に国債発行しても、消化できてしまう構造にある。

 なぜなら、大蔵省は主として予算に関わる主計局、理財局、主税局の分野に加えて、業界行政部門を持っているからである。金融業界に厳しい規制を加えているので、売れなければ国債消化を金融業界に押しつければ、済むことなのだ。加えて、大蔵省資金運用部での引き受けも行われている。

3.「霞が関」行政改革の理念
 行政改革として総合的な霞が関改革が言われる。あるいは、霞が関を効率的な政府にする必要がある、と唱えられているが、効率的とはいったいどういうことなのか。

 また、細々とした内政事項は地方自治体に任せるべきだとの意見もあるが、注意しなければならないのは、中央政府と地方政府とを分離することが、霞が関改革の基本なのではなく、自治体がいかに霞が関に参画するか、あるいは霞が関を地方政府、市民の統制のもとにどのようにおくか、ではないか。

4.国会主導の行政改革
 行政改革は、行政府主導のもとに行われるかのような、あるいは行うべきであるかのような論調が見られる。しかし、行政改革の基本は、国会のリーダーシップの発揮を必要とする。国会は行政府から提出された改革案を審議するだけではなく、国会側から行政改革の理念を、具体的改革案とともに提起していくことが何よりも、重要である。

 それは、行政改革は国会という機関の改革としても進められるべきであって、今回の省庁再編に伴って、従来の中央省庁編成に則った常任委員会編成を徹底的に見直していく必要がある。また、国会の中に予算局や、行政を監視する部局を独自に設置することも必要となる。こうした能動的な行政に対する国会の関与が可能になる国会改革と行政府の改革は並行しなければ、新たな省庁編成や行政制度がつくられても、あくまで行政主導の結果に終わってしまう。

5.大蔵改革
 現在の大蔵省は、2001年より財務省と名称が変わり、財政は財務省が担当し、検査・監督機能と企画立案機能は、2000年7月3日に発足した金融庁が担い、金融再生委員会は2001年に廃止される。これによってかたちのうえでは、財政と金融の分離は果たされることになる。

 大蔵改革は、予算改革、財政構造改革と密接不可分のものとして行われなければならない。まず考えなくてはならないのが、大蔵省は予算の査定部門と、業界行政に対する監督部門と、徴税部門の3部門を独占していること。従って、大蔵改革としては、現在の大蔵省の予算編成のあり方を基本的に改めるということ。省庁別予算編成を大蔵省は基本としてきているが、それを事業分野別、あるいは重要政策経費別の予算査定の仕組みに改めていく必要性がある。

 同時に、大蔵省の特に理財局が管理している財政投融資部門については、財政の投資先機関の整理を含めて、その仕組み自体を徹底的に簡素化する必要性がある。とりわけ現在、予算の査定が省庁別に行われることによって、財投が省庁別予算を補完している。これを切断し財投を全体として縮小することが重要である。以上を前提として、大蔵省の主計、主税、さらに理財3局を予算局という形に統合し、その簡素化を図ることが求められる。

6.公正取引委員会の強化
 ある特定の分野に何らかの機能不全や不祥事が起きると、その分野を取り出して、監視機関をつくる組織改革を改めるべきである。もし仮に、監視部門を業ごとに作るのならば、様々な分野に作る必要が出てくる。
 よって業の監視のためには、日米構造協議で米国から改革課題として提示されるまでもなく、公正取引委員会を強化することが望まれる。人員を10倍程度にして、業界横断的な規制を展開することが、大蔵改革のもうひとつの大きな柱とされなければならない。

7.省庁再編後の予算編成=禍根を残す財政首脳会議の存続
 これまでの予算編成は、夏に閣議了解する概算要求の基本方針と、年末の大蔵原案決定前に閣議決定する予算編成方針を大蔵省が立案した。各省庁の要求を査定するのも大蔵省が担当し、権限が集中していた。

 予算が硬直化しているとの批判を受け、省庁再編後は、民間有識者も交えた内閣府の経済財政諮問会議で予算編成の基本方針を審議するようになる。そこで概算要求の基本方針や、歳出規模などの方針を立案する。したがって、財務省の役割は「一般行政経費は対前年度比10%減」といった数字の詰めや査定に限定される。

 ところが、諮問会議ができるのは2001年1月であって、省庁再編初年度の予算編成は今夏の概算要求から始まる。大蔵省はこの「空白の半年」を利用し、財政首脳会議の創設を持ち出した。首相官邸はそれをのんだばかりか、その財政首脳会議を、2001年に経済財政諮問会議ができるのにもかかわらず、引き続き存続させる方針を固めた。これは、予算編成の既得権を確保したい大蔵省の意向にそったもので、省庁再編の目玉ともいうべき内閣府の権限が骨抜きにされかねない事態である。財政首脳会議と諮問会議の線引きが曖昧なまま併存すれば、基本方針から査定まで大蔵省主導の予算編成が続く公算が大きい。

 そもそも政府が描いた行政改革の真の狙いは、官僚のシナリオがないと動けなかった政治の機能を回復することにあった。よって、省庁再編では12省庁の一段上に内閣府を置き、官邸スタッフの政治任用を増やして重要政策の企画立案や総合調整機能を強めるなど、一応かたちは整うことになる。その大きな柱が、大蔵省が握る予算編成権を内閣府に移すことだった。

 だが、先述のように柱は早くも揺らいでいる。経済財政諮問会議という民間の発想を取り入れる首相主導の機関を作りながら、その発足前に、大蔵省の言いなりのままに財政首脳会議を作り、舵取りを委ねてしまったからである。予算編成を握ってきた大蔵省と与党が財政首脳会議を作り、立ち上げから全面的に介入した結果、首相はその議論を追認するような役回りとなってしまい、官邸の独自色を加えることが出来なくなり、旧来と変わらない構図を残してしまった。

8.内閣府のポスト争い
 先述のように省庁再編の目玉と謳う内閣府は、複数の省庁にまたがる政策を総合調整するために、創出されるものである。他の12省庁よりも格上で、その幹部をどの省庁が担うか決まっていないため、ポスト争いが過熱化している。「首相官邸機能の強化」が内閣府を設けた大きな理由だが、どこまで「省益」を抑えられるかが焦点となっている。

 とくに難航しているのは、事務方トップの事務次官ではなく「統括官」という局長級のポストだ。統括官は7人。このうち3人が経済財政諮問会議の事務方を取り仕切る。内閣府に組織が吸収される経済企画庁は、そのまま諮問会議の事務局に移り、統括官の独占を考えている。ここに大蔵省と経済産業省と名前が変わる通産省もポスト争いに加わったのである。

 官邸側も、こうした省益優先の動きに手を拱いているわけではない。統括官以上のポストに就く官僚は、出身省庁には戻さないことで、内閣府への帰属意識を高めようとしている。しかし、この発想こそが省益の確保に走る官僚の再生産に手を貸すことにならないだろうか。

7.人事・組織改革
 人事院は、7月12日に1999年度の年次報告(国家公務員白書)を国会と内閣に提出した。現在、各省庁に配置されている政治家は大臣と政務次官を併せて最大3人。それが、副大臣制導入で、一番多い内閣府では政治家が8〜9人になり、他の省でも最低5〜6人に増える。それに合わせて、今後の官僚の役割について1章を設けた。そこで政治主導による政策立案の補佐役に徹する必要を述べる一方で、「自律的な公務員人事」が高いモラルを保つとして、人事への政治の介入を避けてきた「霞が関の伝統」擁護の主張を滲ませている。

 上の記述を見るまでもなく、また先述したように日本の国家公務員は各省が個別に採用し、退職後も天下り先を確保するなどして生涯に渡って面倒を見る構造がある。従って省庁再編に伴って、政府の一括採用へと公務員の採用システムを変えることが必要である。同時に、局長級以上の高級幹部は、政治的任命職に変更すべきである。この政治的任命職とは、政治家を局長に据えろというのではなく、政権が外部から有能な人材を登用するとともに、官僚団のなかから政治的任命職を登用することである。