町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

立教大学 全学共通カリキュラム「聖書の思想と人間観」リポート大学での活動

2000.07.15(土)

【機関】立教大学 全学共通カリキュラム 総合教育科目
【科目・タイトル】聖書の思想と人間観・聖書の世界への案内
【開講学期】2000年度 前期[2単位]
【担当】佐藤 研 教授〈立教大学大学院 キリスト教学研究科〉
【リポート課題】授業中に扱った聖書の箇所あるいはその他の聖書の箇所に具体的に言及しながら、聖書の中に現れる世界観・人間観が、現代の諸問題を我々が扱う時にいかに資するところがあるかを論ぜよ。資するところがないと判断するなら、その理由を論ぜよ。
【リポート題目】「『創世記』天地創造物語における”良し”に関する一考察」

1.前書き
 1997年の復活祭に、私はカトリックの洗礼を浅草教会にて澤田和夫神父(因みに澤田神父は『論文の書き方』の著者澤田昭夫氏の実兄です)の司式により受けました。

 前年(1996年)の5月から同教会に通い始めて、10ヶ月目での受洗はカトリックでは早いほうかもしれません。
そもそも、教会に通い始めるきっかけとなったのが、『創世記』第1章における”良し”という語句に見る、神による、自らが作ったものへの手放しの讃美を、20年程前に知ったことにあります。

 爾来、20有余年、自らの仕事が一段落着いた機会を捉えて、カトリック教会に通い始めたのでした。
キリスト教以外の宗教は全く知らないので伺いたいのですが、創造主による被造物への、これほどまでに邪気のない肯定は、他宗教にも見られることなのでしょうか。もちろん他宗教でもこの場合、ユダヤ教は除かれます。

 先述のように、幸か不幸か、ぼくは他宗教を知らないのですが、この”良し”に見る、「神によって創造された世界の積極的肯定」*1 を掛け替えのないものとして捉え、この言葉に縋る思いで、受洗するに至ったのです。

 つまり、「神が自ら造ったすべてのものを見ると、はたして、それはきわめてよかった」と全く肯定されるのであれば、神の被造物のひとつとしての自分も、もしかしたら「良い」ものなのかもしれないと思い、深く救われる思いがしたものです。

 よって今回、この語句「に現れる世界観・人間観が、現代の諸問題を我々が扱う時にいかに資するところがあるか」、はなはだ心許なくはありますが、小考を加える次第です。

2.序論
 『創世記』第1章1節から第2章4節aまでの天地創造物語において、この僅かな分量の文章の中に、第1章4、10,12,18,21,25節と、6回も”良し”が使われている。そして、31節に至って神は全体の過程を回顧して次のような最終判断を下す。”はたして、それはきわめてよかった”と。

 初めてこの箇所を読んだとき、この手放しの讃美ぶりに、いささかの途惑いを覚えたのを覚えている。

 神御自身で造っておきながら、それをなんの衒いもなく、こうまで手放しに全肯定するのが、20年前にこの箇所を初めて読んだ自分にはよく分かっていなかったのであった。

 この”良し”はヘブル人にとっては、「彼らの住む世界が唯一の善なる神の不変で恵み深い意志によって始まり、かつ存在し続けているという彼らの信仰を支えたのである。他の国々では、善あるいは悪である多くの神々の間で世界が区分けされており、自分たちがどこに置かれているのか確かではなかった。これらの宗教に特徴的な傾向は、「諦め」であった。とはいえ、ヘブル人が安易な楽天家であった訳ではない。彼らの世界の光は、この第4節において良しとされていない闇と対比されていた。彼らは、闇と混沌は決して遠ざからないということを十分すぎる程知っていたが、唯一の神である彼らの神が統治していることも確信していた。それ故、ヘブル人の宗教に特徴的な傾向は、希望であった。人生の謎と災いの中に幸福と喜びが入る余地があった。神が彼らを置いたこの世界はよい場所であり、人生は歓迎され謳歌すべきものであった。」*2

 また「この神は、アインシュタインの有名な言葉によれば、サイコロを振らない。この章全体を通じてキーワードが繰り返されている。神は「語った」、「見た」、「分けた」、そして「呼んだ」のである。風格のあるリズムと反復は、諸事件が冷静に秩序づけられたパターンに従っているとの感じを与える。同様に、神の創造の各段階が「良い」ものだとの神の宣言は、世界の素晴らしさ、正しさ、健全さを強調している。この神は力強いのみならず完全に恵み深い。テキストの構造はクレッシェンドへと上り詰める。著者は、創造の日々が続くにつれて、ますます詳しく記述していく。遂に万物は第六日目に収斂し、人間が創造され、神は自らの世界を「はなはだ良い」と宣言する。」*3

3.本論
 前書きで記したように、私は『創世記』の天地創造物語での、神による「良し」にみる、被造物へのあからさまなまでの讃美に導かれる思い―縋る思い―で、洗礼を受けました。

 第1章31節で「神が自ら造ったすべてのものを見ると、はたして、それはきわめてよかった。」という言葉にどれほど私は救われたか知りません。

 たとえば何か失敗を犯したときに、この言葉を知る以前の私は、ひどく悔やみ、自分を責め苛み、挙句は天を呪ったものでした。そして深く落ち込み、そこから脱するのに、どれほど苦労したことでしょう。
 けれど、この言葉を知ってからは、すべての事柄を前向きに捉えることが出来るようになりました。
 つまり、たとえ失敗しても、神が「すべてのものを見て、それはきわめてよかった」と言うのだから、私が犯した失敗も、神から見ると「良い」ことに違いなく、嘆き悲しむことはないのだ、と自分を納得させることが出来るようになりました。

 傍から見れば、この考えには大いなる疑問と危うさを同時に持つことでしょう。

 まず、私の失敗と天地創造した後に神が「きわめてよかった」と被造物を讃美することに、どのような連関性が認められるのか、という疑問。たんなる牽強付会に過ぎないと思われるでしょうが、たしかに、なんの関係もありません。それは、言うまでもないことです。

 けれど、私も神の被造物のひとつであるののだから、「すべてのものを、それはきわめてよかった」と言う神から見て、私の行動−たとえ失敗であっても−もよかったと言って下さるのではないかと、思い込んでしまったのです。

 「鰯の頭も信心から」と言いますが、ロマ書第10章10節「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」とあります。たとえ予期せぬ致命的な失敗を犯しても、これも「きわめてよかった」んだから、きっと良いことなんだろうと、自分で納得出来るようになったのです。すると、以前のように自らの失敗を必要以上に嘆くことはなくなりました。そして時間の経過とともに、不思議なことに、失敗していたと思われたことが、禍福は糾える縄の如く、結果的には良いことをもたらすことが、多々見られるようになったのです。

 たとえば、私事ではありますが、昨年交通事故に遭い、全快するまで3ヶ月もの長い間、落語家としての正常な活動は出来なくなりました。青信号の交差点を横断中に自動車に轢かれたのですから、非は全面的に加害者にあります。事故は、経済面と身体面の何れから見ても、大いなる痛手でありました。『創世記』の「良し」を知る前であれば、どんなにか自分の不運を嘆いたことでしょう。ところが、先ほどから何度も言うように、交通事故に遭ったのもきっと良いことなんだと思いました。

 その結果、療養期間中に私が考えたのは、
(理由は一つではなく重層し、またこの稿の主題とも離れますので詳述は致しませんが)、もう一度大学へ戻って勉強し直そうというものでした。だから19年を経て再び立教の学生となったのです。

 もちろん、大学への復学がどんな結果をもたらすのかは、まだ分かりかねます。けれど、どんな結果が現れても、決して後悔はしないでしょう。なぜなら何度も言うように、「すべてのものを見て、きわめてよかった」と神が言っておられるのだから。

 しかしこの言葉に縋ることは、精神の安定を得るためには大いに資するところがありますが、大きな陥穽も併せもっています。

 つまり、どんな結果が出ても、それもまた「良い」ことなんだと、自己弁護のひとつに使ってしまえるからです。これが、先に触れた「危うさ」であります。あたかも万能薬のような効能を要する、この「良い」でありますが、みだりに使ったり、あるいは使い方を誤ると、一切の努力を惜しみ、ただ言い訳をするばかりの、有害無用の人間ばかりを産することにもなりかねません。

 かくいう私自身も、うっかり使い過ぎてはいないか、常に自省をする日々です。

4.結論
 『創世記』の天地創造物語は何度読んでも、深い文学的感動を与えてくれものです。それは、第一級の文学作品のみが持つ雄勁なリズムと、内包する広大な思想を具現化する優れた詩心が相まって形成するものでしょう。
 自分が洗礼を受ける切っ掛けとなった語句「良し」を肴に、「きわめてよかった」への思いを記してきました。あるいは、求める内容とは程遠いレポートにしかなっていなかったかもしれません。けれど、著名な新約聖書学者でいらっしゃる佐藤先生に、天地創造物語の「きわめてよかった」をこんなふうに捕らえている者もいるんだ、と言うことを知っていただきたく、以上記した次第です。

[単行本の引用]
* 1 月本昭男『創世記注解[1]』(リーフ・バイブル・コンメンタリーシリーズ)日本キリスト教団出版局、1996年、48頁。
* 2 J・C・L・ギブソン『創世記[1]』(The Daily Study Bible)荒井章三・西垣内寿枝訳、新教出版社、1998年、93頁。
* 3 カレン・アームストロング『楽園を遠く離れて−『創世記』を読みなおす』高尾利数訳、柏書房、1997年、17−18頁。