町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

慶應義塾大学 文学部専門教育科目「イタリア文学」大学での活動

2019.09.27(金)

箇所:慶應義塾大学 文学部専門教育科目【面接授業】
科目:「イタリア文学」[2単位]
担当:藤谷 道夫 教授
テキスト: ダンテ・アリギエーリ 須賀敦子・藤谷道夫訳『神曲 地獄篇 第1歌~第17歌』(河出書房新社、2018年)
問題:授業を受けた感想
分量:A4=1枚(裏面に及んでも可)

「イタリア文学」レポート

1、地獄篇第1歌8行目《悪しきものの中に見出した善を語るため》

 日本国憲法や聖書を読むのは、さほど難しいことではない。いずれも、やさしい日本語で書かれているからである。しかし、そこに込められた意味を知ろうとすると、突如、難しいものとなる。先生が引用した、シモーヌ・ヴェイユの「ただ単に知ることと、全身全霊を打ち込んで知ることには、無限の隔たりがある」のである。

 たとえば、日本国憲法1条には、次のようにしるされている。

 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」。

 この条文を、憲法の最もスタンダードな教科書とされる、芦部信喜『憲法』にあたると、次のようにしるされている。「憲法一条の象徴天皇制の主眼は、天皇が国の象徴たる役割をもつことを強調することにあるというよりも、むしろ、天皇が国の象徴たる役割以外の役割をもたないことを強調することにあると考えなければならない」。これを、わかったようで、よくわからない説明だと思うのは、筆者だけであろうか。しかしこの説明によって、読者は、憲法1条に込められた思想の一端にふれることはできる。

 この授業で、筆者はダンテの『神曲』にはじめてふれることとなったが、痛切に思うのは、『神曲』をいきなり読み始めなくてよかった、ということである。

 いきなりこの大作に挑んでいたら、そこに描かれた広大無辺なる世界の幾分を味わえたのであろうか、と思うからである。

 たとえば、地獄篇第1歌8行目にある、《悪しきものの中に見出した善を語るため》との撞着語法に、どれだけ深い意味が隠されているのか、字面をただ追っているだけでは永遠に理解できなかったであろう。「神は悪を悪のまま放ってはおかない。悪を善に変えることこそ、神の働きであり、それが神の摂理である」[1]ことの暗示であることには、注釈がなければ、到底、思いが及ばないからである。

2、『神曲』とニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』との類似性

 あらためていうまでもなく、『ツァラトゥストラはこう言った』では、ニーチェが「神が死んだ」とし、キリスト教を破壊する書として有名である。それに比して『神曲』は、それから時代が大きくさかのぼり、キリスト教が絶大な力をもっていた中世に書かれたものであり、その作者「ダンテの旅は「終わりのない復活祭」と化して幕を閉じることになる」[2]

しかし、『神曲』を読むと、筆者はニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』との類似性に気づかされた。ただそれは、筆者が知らないだけで、『神曲』と『ツァラトゥストラはこう言った』との類似性は、すでに広く知られていることなのかもしれないし、あるいは類似性は否定されているのかもしれないが、そのいずれも筆者は承知していないので、これからそれについてふれたい。

 『ツァラトゥストラはこう言った』の第一部「ツァラトゥストラの序説」冒頭、「ツァラトゥストラは、三十歳になったとき、そのふるさとを去り、ふるさとの湖を捨てて、山奥にはいった」としるされている。

 これは、地獄篇第一歌の3行目、「暗い森の中をさまよっていた」と見事に照応している。

 その後、『ツァラトゥストラはこう言った』では、天の象徴としての「鷲」と地の象徴としての「蛇」とが出現する。

 『神曲』では第一歌に、豹と獅子と雌狼が出てくるが、これも動物が出るという意味で、照応しているのではないだろうか。

 そして、ツァラトゥストラは「賢者たちにふたたびその愚かさを、貧者たちにふたたびおのれの富を悟らせてよろこばせたい。(改行)そのためにわたしは下へおりて行かなければならない」として、おりて行く。

 これは、「ウェルギリウスに会う前のダンテはこれを弁えず、降りることなしに、上に登ろうとしたために落ちていった」[3]ことと符合させているのではないか。

 なによりも、『ツァラトゥストラはこう言った』が『神曲』から学んだと思われるのは、ニーチェがこの作品において、観念論的哲学の体系的な叙述形式をとることはなく、詩的、劇的、文学的な形式をとってその思想を表現しているところである。

3、『神曲』に見られる驚くべき緻密な構成は、一般の読者に理解され得るものではない[4]

 そもそも、書いてそれを発表するという行為は、それを一人でも多くの読者に知らしめたいからなのだと思うが、ダンテは『神曲』を、「究極の真の評者である神とベアトリーチェを常に念頭において書いている」[5]のだという。それほど、ダンテにとっては、神とベアトリーチェの存在が大きいということなのだろう。

【参考文献】

ダンテ・アリギエーリ 須賀敦子・藤谷道夫訳『神曲 地獄篇 第1歌~第17歌』(河出書房新社、2018年)

芦部信喜『憲法』(岩波書店、2000年)

ニーチェ 氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』上下(岩波書店、2005年)


[1] 藤谷先生のプリント87頁。

[2] 藤谷先生のプリント21頁。

[3] 藤谷先生のプリント47頁。

[4] 藤谷先生のプリント118頁。

[5] 藤谷先生のプリント118頁。